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第3話 西麻布、賞味期限

――若いことしか武器にできない恐怖――


 東京という街は、あらゆるものに賞味期限をつけたがる。


 流行。


 店。


 人間。


 特に、若い女の価値。


 この街では、若さは資産だ。


 何もしなくても、勝手に利息を生み続ける。


 けれど同時に、一秒ごとに目減りしていく容赦のない負債でもある。


 だからみんな、自分の価値がゼロになる前に、金や結婚や肩書きへ換金しようと必死になる。


 時給四千円。


 今夜も僕は、その目減りしない固定の値段で、誰かの理想の恋人になる。


 スマートフォンを開く。


 アドレス帳の最新の欄には、こうあった。


『西麻布・ラウンジ・二階』


 二階、という文字だけが、妙に頼りなく見えた。


 地上からは離れている。


 でも、空にはぜんぜん届いていない。


 今夜の依頼人は、そんな高さにいた。


 タワマンの上層階へ駆け上がるのか。


 それとも、冷たい地上へ真っ逆さまに落ちるのか。


 その不安定な境界線で、ピンヒールの先だけで辛うじて立っているみたいだった。


「ねえ、蓮くんってさ」


 車に乗った瞬間から、助手席の彼女は喋り続けていた。


 優愛さん。


 二十二歳。


 西麻布の高級ラウンジで働く、現役のラウンジ嬢。


「絶対モテるでしょ」


「仕事柄です」


「はい出た。そういうとこ。女慣れしてる男の返し。今の減点」


「採点されてるんですね」


「されるよ。私たち、毎日されてるもん。顔、年齢、売上、客単価、指名本数。あとノリね。ノリ悪い女は、この街じゃ生きてるだけで死刑だから」


「大変ですね」


「それも減点。大変ですね、って言う男、だいたい何も分かってない」


「厳しいですね」


「まあね。でも“厳しいです”って顔してたら、客逃げるから」


 優愛さんは、カラカラと軽く笑った。


 明るい。


 速い。


 うるさい。


 まるで壊れたラジオみたいに、言葉が次から次へと溢れて止まらない。


 でも、僕には分かった。


 彼女は、ただ沈黙が怖いのだ。


 少しでも会話が途切れたら、自分の奥にある暗い空洞が、冬の白い息みたいに漏れ出てしまう。


 それを知っているから、ひたすら喋る。


 笑う。


 値段の話をする。


「どこ行く? 西麻布のバー? それとも会員制のとこ? あ、でも蓮くんって、会員制バーよりコンビニのコーヒー飲んでそうだよね」


「よく分かりましたね」


「え、当たってるの? ウケる。てか大学生なんだっけ? 若っ。こっちが金払ってるのに、なんか罪悪感あるんだけど」


「今日は恋人役なので」


「その言い方、業務感すご。萎えるわ」


 僕はハンドルを切り、西麻布のきらびやかな光から逃げるように、深夜のオフィス街へ車を滑らせた。


「ここです」


「……え?」


 車を停めたのは、完全に閉まったオフィスビルの隙間にあるコンビニの前だった。


 深夜二時。


 店内の蛍光灯だけが、白く、冷たく、妙に正しかった。


「コンビニ?」


「はい」


「マジで?」


「はい」


「え、逆に新しい。いや、新しくはないか。むしろ古い。何これ、デート偏差値低すぎない?」


「肉まん食べますか」


「食べるけどさ」


 優愛さんは口を尖らせながらも、僕が差し出した肉まんをちゃんと両手で受け取った。


 ハイブランドのミニドレス。


 派手なビジューがギラギラと光るパンプス。


 巻かれたばかりの綺麗な髪。


 そのすべてが、コンビニの蛍光灯の下では、悲しいほど頼りなく見えた。


 ラウンジの薄暗い間接照明は、人間の嘘を綺麗に見せるための光だ。


 でも、コンビニの白い光は、何も盛ってくれない。


 肌の疲れも。


 目の奥の怯えも。


 値札のついていない時間の、どうしようもない気まずさも。


 全部、そのまま残酷に照らし出してしまう。


「寒っ」


 優愛さんは肉まんを両手で包み、小さく息を吹きかけた。


「こういうの、久しぶりかも」


「そうなんですか」


「最近、あったかいものって、だいたい人のお金で食べてるから。同伴一回、何万の寿司とかさ」


 彼女はいつもの調子で笑った。


 でも、すぐに視線を足元に落とした。


「今月、売上やばいんだよね」


 肉まんを小さく齧りながら、優愛さんがぽつりと言った。


「太客が一人切れそうでさ。そいつ、最近二十歳の新人に流れてんの。分かる? 二十歳だよ。ほぼ赤ちゃんじゃん。いや、赤ちゃんは言いすぎか。でもマジで若いの」


「……」


「今月ナンバー落としたら、私の席なくなるかも。同伴も足りないし、シャンパンも弱いし。ラウンジってさ、ほぼアイドル業界なんだよね。可愛いだけじゃダメ。でも、可愛くなくなったら一瞬で終わり」


 全部、数字の話だった。


 売上。


 指名。


 年齢。


 客単価。


 同伴回数。


 彼女は、自分を人間として語らない。


 まるで欠陥のある商品の説明書を読み上げるみたいに、自分の市場価値をプレゼンしている。


「私、今どれくらい価値あるんだろ」


 優愛さんは、肉まんの白い皮を指先で少しずつ、いじめるように剥がしていた。


「ねえ、蓮くん」


「はい」


「二十五歳って、もう中古かな」


 声だけが、急に軽さを失った。


 肉まんの白い湯気の向こうで、彼女の瞳がひどく怯えていた。


「ラウンジじゃ、二十五過ぎたらみんな“お姉さん”って呼ばれるの。名前じゃなくて、お姉さん。値札を書き換えられるみたいにさ」


 彼女は笑おうとした。


 でも、引き攣った唇はうまくカタチを作れなかった。


「若いことしか武器がないのに、その武器が毎日ちょっとずつ、確実に減ってくの。怖くて、夜、時々死にそうになる」


 僕は何も言わなかった。


 安易な慰めは、この街では一番価値の低いゴミだ。


 そして優愛さんは、安いものを何より嫌う女だった。


「でもさ」


 彼女は急に、いつもの速いテンポを無理やり取り戻すように声を張り上げた。


「どうせ蓮くんだって、私のこと“若いラウンジ嬢”って商品名で見てるんでしょ?」


「……」


「同情とかしないでよ。キモいから。お互いビジネスじゃん。私も商品。蓮くんも商品。時給四千円のさ」


 その瞬間、胸の奥で何かが鳴った。


 ぱきり。


 小さな音だった。


 白い部屋と、消毒液の匂いが、一瞬だけ戻ってくる。


 ――あなた、人を見る時だけ、少し寂しそうな顔をするのね。


 あの言葉が、まだ抜けない棘みたいに残っていた。


 優愛さんの言葉は、彼女自身を傷つけるための自傷の刃だった。


 でもそれは、まっすぐ僕の胸にも突き刺さっていた。


 僕は、プロの笑みを消した。


「違います」


 怒鳴らなかった。


 むしろ、自分でも驚くほど低く、冷徹な声だった。


 優愛さんの指が、ぴたりと止まる。


「……え?」


「あなた、自分を値札で呼びすぎです」


 コンビニの白い蛍光灯が、僕たちを容赦なく真上から照らしている。


「売上も、年齢も、指名本数も、ただの数字です」


「そんなの、この街じゃ」


「でも、あなたはその数字で、自分の名前まで上書きしようとしてる」


 優愛さんの口が、少しだけ開いた。


「若いラウンジ嬢。売上が落ちた女。二十五歳から値下がりする商品。そんな呼び方ばかりしていたら、あなたが、あなた自身を見失います」


「……」


「あなた自身が、自分を商品だと認めてどうするんですか」


 言い終えてから、激しい自己嫌悪が襲ってきた。


 これは、優愛さんへの言葉じゃない。


 時給四千円という値札を自分に貼り、感情に麻酔を打ってきた、僕自身への言葉だった。


 蛍光灯の下で、優愛さんは黙っていた。


 壊れたラジオみたいに喋り続けていた彼女が、初めて完全に沈黙した。


 やがて、彼女の目から大粒の涙が落ちた。


 一粒。


 また一粒。


 メイクが崩れるのも、ラメが流れるのも構わずに、彼女は肉まんを強く握りしめたまま、子供のように声を殺して泣いていた。


「……肉まん、冷める」


 長い沈黙の後、優愛さんが小さく鼻をすすった。


「はい」


「こういう時、優しいこと言ってくれないんだね」


「安い言葉は、お嫌いかと思って」


「ほんと、最悪」


「よく言われます」


「……でも」


 彼女は涙を拭いながら、小さく笑った。


「今日の最悪は、ちょっと高い」


 一時間が過ぎた。


 車を西麻布に戻し、彼女を降ろした。


 ガラスの扉の向こう、ラウンジの明かりはまだ生々しく残っていた。


 欲望と嘘が、まだそこら中で踊っている。


 優愛さんはドアの前で振り返った。


「蓮くん」


「はい」


「本名?」


 心臓が、一拍だけ遅れて跳ねた。


「どう思います?」


「うわ、出た。そうやってすぐ逃げる」


 彼女は少しだけ笑った。


 泣いたせいで、目元のメイクが少しだけ滲んでいる。


「でも、いいや。今日のところは見逃してあげる」


「ありがとうございます」


「褒めてない」


 優愛さんは、いつもの軽さに声を戻してそう言った。


 でも、自動ドアが閉まる直前、僕には聞こえないくらいの小さな声で、


「……ありがとね」


 と呟いた。


 そして、西麻布の夜の奥へと戻っていった。


 スマートフォンを開く。


『西麻布・ラウンジ・二階』


 その文字を、指先でデリートする。


 ルール通りだった。


 名前は残さない。


 記憶も残さない。


 その方が、この街では傷つかずに済む。


 けれど。


 胸の奥に生じた、あの怒りという生々しい質量だけは、どうしても消えてくれなかった。


 怒り。


 久しぶりに手に入れた、名前のある感情だった。


 窓の外を見上げる。


 東京タワーの赤は、今夜も遠くで非常口のランプみたいに光っていた。


 出口の場所を、静かに照らしている。


 僕を閉じ込めていた時給四千円の檻に、またひとつ、深いひびが入った。

ここまでお読みいただきありがとうございました。


第3話は、若さに値札をつけられる女性の話でした。

少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価、いいねで応援していただけると嬉しいです。



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