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第4話 東京、あるいは僕たちの名前

――商品だった人間が、痛みとともに体温を取り戻す話――


 最近、うまく笑えなくなっていた。


 西麻布のコンビニの前。


 白い蛍光灯の下で、メイクを流しながら子供のように泣いていた優愛さんの顔が、どうしても目の裏から離れない。


 自分を値札でしか呼べない彼女に吐き捨てた言葉は、ブーメランのようにそのまま僕自身に突き刺さっていた。


 時給四千円。


 その都合のいい値札を自分に貼り、感情に麻酔を打って生きてきた僕自身に。


 他人の地獄を安全圏から覗き、理想の恋人を演じる。


 そんな仮面が、うまく被れなくなっていた。


 そんな折に、ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 画面に表示された二文字を見た瞬間、僕の心臓はひどく不規則に跳ねた。


『美咲』


 数ヶ月ぶりだった。


 あの日、ルールを破ってアドレス帳から消せずに残してしまった、最初の顧客。


 数日後に夫とシンガポールへ移住する、と短いメッセージが添えられていた。


 それが、彼女から僕への、東京での最後の依頼だった。


 金曜の深夜二時。


 六本木のホテルの車寄せに、見覚えのある高級車が滑り込んできた。


 現れた美咲さんは、数ヶ月前とまったく変わらず、完璧に美しかった。


 毛先まで整えられた髪。


 シャネルのジャケット。


 ガラスケースの向こうに飾られたディスプレイみたいな横顔。


 けれど、助手席のドアを開け、僕を見た彼女は、いつもの挨拶をしなかった。


 ただ、まっすぐに僕の目を射抜いて言った。


「今日は、“蓮くん”いらない」


 短く、硬い言葉だった。


 でも、その一言で、僕はドアを閉めるタイミングを忘れた。


 一時間四千円で作られた“蓮くん”という男。


 彼女は、今夜その名前を必要としていなかった。


 車は、深夜の港区へ滑り出した。


 赤信号。


 ウインカーの音だけが、狭い車内で規則正しく鳴り響いている。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 前までは、この沈黙をコントロールするのが得意だった。


 相手が何を欲しがっているか。


 何を言えば安心するか。


 どこまで踏み込めば恋人らしく見えるか。


 バックミラー越しに彼女たちの背景を観察していれば、全部、正解が分かっていた。


 でも今夜は、まるで違う。


 沈黙が、やけに深くて重い。


 赤信号で止まるたび、車内の酸素が薄くなっていくようだった。


 お互いの息を吸う音だけが、狭い空間で生々しく鼓膜に届く。


「……何話せばいいか、分からない」


 プロ失格の、あまりにも格好悪い弱音だった。


 美咲さんは、僕の硬直した横顔を見て、今夜で一番優しく、少女のように笑った。


「やっと、人間っぽい」


 彼女は静かに窓の外へ目を向けた。


 たぶん美咲さんも、もう覚悟を決めているのだ。


 夫に完璧に管理されたあの美しい檻を受け入れて、東京を去ることを。


 だから最後の夜だけは、綺麗にパッケージされた恋人ではなく、自分と同じように傷を隠した人間と同じ空気を吸いたかったのかもしれない。


 車は、東京タワーの真下へ滑り込んだ。


 真下から見上げた東京タワーは、決して綺麗じゃなかった。


 網の目のように組まれた赤い鉄骨が、夜空を力づくで塞ぐみたいに何重にも重なっている。


 遠くから見ていた時は、あんなに整っていた。


 近づくと、そこにあるのは冷たい鉄とボルトの匂いだけだった。


 巨大で、不格好で、逃げ場がない。


 僕は、車のエンジンを切った。


 メトロノームのようだったウインカーの音も消え、車内は完全な無音になる。


 フロントガラスを覆い尽くす赤い鉄骨の光が、僕たちの顔を濃く、生々しく染めていた。


「名前、教えて」


 美咲さんが、僕の目をじっと覗き込む。


「蓮くんじゃなくて。あなたの、本当の名前」


 逃げ道を探すように、僕はいつものプロの笑みを作ろうとした。


 でも、引き攣った唇はうまくカタチを結ばなかった。


 喉が、張り付いたようにうまく開かなかった。


 自分の本名なんて、この街で時給四千円の記号になってから、ただの一度も使っていなかったから。


 名前を口にすること。


 剥き出しの自分をここに晒すこと。


 それが、怖くて仕方がなかった。


 それでも、胸の奥のひび割れた檻から、何かが激しく溢れ出そうとしていた。


 僕は、重い唇を開く。


 ――その名前を口にした瞬間、東京の夜が、一瞬だけ静かになった気がした。


 自分の声なのに、ずっと忘れていた、ひどく掠れた音がした。


 美咲さんは、その本名の響きを愛おしむように、静かに目を細めた。


「……そういう名前なんだ」


 彼女は少しも驚かなかった。


 最初から、この“蓮”という都合のいい名前の奥に、自分と同じように寂しさを抱えた人間がいることを知っていたみたいに、ただ静かに笑った。


 数ヶ月の時間を経て、僕たちはようやく、本当の答え合わせを終えた。


 手を握ることもない。


 抱き合うこともない。


 キスをすることもない。


 ただ、互いの名前だけを交わした。


 その夜、僕たちはこの街で初めて、誰の理想も演じなかった。


 美咲さんは完璧な檻へ戻り、数日後、予定通りシンガポールへ発っていった。


 一人になった深夜の港区で、僕はスマートフォンを開く。


 アドレス帳の画面。


 そこには、あの日から消せずにいた『美咲』の二文字が、静かに浮かんでいる。


 僕は画面を見つめ、あの日、打ちかけて止めた行為をもう一度始めた。


 美咲、という文字の下。


 空白の欄に、自分の本当の名前を親指でタイピングしていく。


 指が、少し汗ばんでいた。


 たった数文字の、自分の名前なのに、うまく打てない。


 一度、打ち間違える。


 バックスペースを押した。


 カチ、という微かなプラスチックの音だけが、静まり返った夜に小さく響いた。


 自分を時給四千円の商品ではなく、一人の人間として登録することに、僕の指先はあまりにも不器用だった。


 文字を修正し、本当の名前が、光る画面に残る。


 それは、僕が僕自身を少しだけ取り戻した瞬間だった。


 顔を上げる。


 東京タワーは、今日も同じ赤だった。


 でもその夜だけ。


 あの巨大で不格好な赤は、僕の目に、少しだけ温かく見えた。


 初めて、この街の光に、人間の体温が混じった気がした。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


『東京、偽装恋愛。』はこれで完結です。


恋人を演じる男と、

東京の夜で名前を失いかけた人たちの話でした。


少しでも心に残りましたら、ブックマーク、評価、いいねで応援していただけると嬉しいです。


東京の夜の話は終わりますが、

作者ページには、また違う誰かの人生が置いてあります。


お時間がありましたら、そちらものぞいていただければ幸いです。

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