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第2話 銀座、修正不能

――他人の顔はいくらでも直せるのに、自分の心だけが直せない――


 東京という街は、割り切れないものを嫌う。


 曖昧な関係。


 数値化できない感情。


 形のない寂しさ。


 そういうものはすべて、都市のノイズとして処理される。


 だからこの街の人間は、目に見える記号ばかりを信じる。


 年収。


 フォロワー数。


 住んでいるタワマンの階数。


 そして、顔の黄金比。


 時給四千円。


 今夜も僕は、その冷たい境界線の上で、誰かの都合のいい恋人になる。


 スマートフォンを開く。


 アドレス帳の最新の欄には、こうタイピングされていた。


『銀座・美容外科・四十二階』


 銀座にある外資系ホテル。


 最上階のスイートルームは、無菌室のように静かだった。


 窓の外には、網の目のように広がる首都高速の光。


 部屋の中には、高価な香水。


 その奥に、かすかに消毒液の匂いが混じっていた。


「はじめまして、蓮くん」


 ソファに座っていた女が言った。


 沙織さん。


 三十四歳。


 有名美容外科クリニックの院長。


 テレビでも雑誌でも、何度も見たことがある顔だった。


 そして、その顔は完璧だった。


 額から鼻筋への滑らかな線。


 左右対称の輪郭。


 ミリ単位で調整されたであろう二重の幅。


 最新のAI肌診断にかければ、確実に九十八点以上を叩き出す。


 人間というより、冷たい完成品に近かった。


「はじめまして、沙織さん。今夜一時間、あなたの恋人を務めさせていただきます」


 僕はいつものように、プロの微笑みを作って対面に座った。


 彼女は僕を見た。


 恋人を歓迎する目ではなかった。


 どこにメスを入れるかを探す、冷徹な医者の目だった。


「ねえ」


「はい」


「私の顔、どう思う?」


「完璧だと思います」


「つまらない男」


 沙織さんは、薄く笑った。


「誰でもそう言うの。綺麗ですね。完璧ですね。先生みたいになりたいです、って」


 グラスの中で、シャンパンの泡が細く上がっていた。


「でも、誰も気づかないのよ」


「何にですか」


「私が、ちゃんと疲れてることに」


 完璧な人間は、心配されない。


 美しい人間は、壊れていないことにされる。


 この街では、傷もまた、見た目が悪くなければ存在しないものとして放置される。


「だから、今夜の依頼ですか」


 彼女のオーダーは、少し変わっていた。


『今夜だけ、私の欠陥を探してほしい』


「あなた、一時間四千円で理想の恋人を演じるプロなんでしょう?」


「一応は」


「だったら、この完璧な私の中から、一箇所だけでいい。崩れているところを見つけて」


「見つけられなかったら?」


「帰ってもらうわ。期待外れってことでね」


 言葉の温度が、一気に二度ほど下がった。


 お互いの急所を刺し合うような、冷徹な観察戦が始まった。


 僕は、沙織さんの顔を見なかった。


 顔はすでに完成している。


 完成品をいくら眺めても、その裏にある人間には辿り着けない。


 僕は、彼女の生活を見た。


 テーブルの上のシャンパン。


 整いすぎたクッション。


 バスルームの扉の隙間。


 香水の層。


 そして、膝の上に置かれた手。


「沙織さん」


「見つかった?」


「顔は完成しています。直すところなんてどこにもない」


「またそれ?」


「でも」


 僕は、彼女の手元を見た。


「指先だけ、少し荒れています」


 沙織さんの動きが、ぴたりと止まった。


「爪も短い。かなり丁寧に、深く切ってある。それに、さっきから香水の奥に、消毒液の匂いがします」


「……」


「毎日、何度も手を洗う人の手ですね」


 僕は、彼女の指先から目を逸らさなかった。


「血も、欲望も、消毒液で落ちるものばかりじゃない」


 部屋が、耳が痛くなるほど静かになった。


 首都高速の光だけが、音もなく窓の外を流れていく。


 沙織さんは、自分の両手を見つめた。


 長い沈黙。


 それから、ゆっくりと顔を上げる。


「……本当にタチが悪いわね」


 声が、少しだけ変わっていた。


 他人に聞かせるための、医者の声ではなくなっていた。


「あなた、私の手ばかり見て、自分の手は見てないのね」


「え?」


「あなたの指先、冷たすぎるわ」


 彼女の視線が、僕の手の上に落ちる。


「人を観察して、全部分かったような顔をしてる。でも、自分のことになると、急に何も見えなくなるのね」


 沙織さんは身を乗り出した。


 その瞳は、彼女が持つどのメスよりも鋭かった。


「あなた、人を見る時だけ、少し寂しそうな顔をするのね」


 呼吸が、一瞬だけ止まった。


「時給四千円の安全圏から、他人の地獄を覗いてる。自分は何も失わない場所に立ってるつもりで」


 彼女は、少しだけ笑った。


「ねえ、蓮くんって、本名?」


 胸の奥を、薄い刃で綺麗に開かれた気がした。


 観察者だったはずの僕が、いつの間にか診察台の上で解剖されている。


「……どう思います?」


 僕は、喉の渇きを堪えながら、やっとそれだけ言った。


 沙織さんは笑った。


 少しだけ、悲しそうに、愛おしそうに。


「そうやって、あなたも自分の欠陥を隠してるのね。直せないものから、逃げるみたいに」


 彼女は立ち上がった。


「少し待ってて」


 バスルームの扉が閉まる。


 激しい水の音がした。


 それは、何かを拒絶するような、長い時間だった。


 十分後、彼女が戻ってきた。


 メイクは、すべて跡形もなく落とされていた。


 そこにいたのは、テレビの中のカリスマ院長でも、雑誌の中の完璧な女でもなかった。


 頬にある、細かなシミ。


 目元の、薄い疲労の影。


 そして、笑う時だけ、右目がかすかに泣いているように動かない表情の癖。


 最新のAIなら、確実に点数を下げるだろう。


 でも、それが今夜で一番、沙織さんという生身の人間に見えた。


「どう?」


 彼女は言った。


「修正不能な、私の本当の顔」


「綺麗です」


「それ、一番つまらない答え」


「じゃあ」


 僕は少し考えてから、冷たい指先を握りしめて言った。


「やっと、人間に見えました」


 沙織さんは、ゆっくりと目を伏せた。


 その目元には、今にも溢れそうな涙の膜が張っていた。


「泣いてもいいんですよ、沙織さん」


 彼女はハンカチを取り出し、そっと目元を押さえた。


 結局、涙は一滴も落ちなかった。


「やめとく」


「どうしてですか」


「泣くと、明日むくむから」


 その一言が、ひどく静かに、僕の胸の奥へ刺さった。


 泣くことさえ、明日の顔のために管理されている。


 悲しみすら、美しさという記号の邪魔になる。


 沙織さんは鏡を見た。


 メイクを落とした自分の歪な素顔を、医者の目で見て、それからゆっくりと、ただの女の目で見た。


「明日もね、十人の顔を直すの」


「はい」


「みんな、今より綺麗になれば幸せになれると思ってるわ」


「沙織さんは違うんですか?」


「私は」


 彼女は少し笑った。


「綺麗になっても、人はちゃんと不幸になれるって知ってる」


 一時間が過ぎた。


 僕は部屋を出た。


 エレベーターの鏡に映る自分は、相変わらず誰のものでもない顔をしていた。


 スマートフォンを開く。


『銀座・美容外科・四十二階』


 その文字を消す。


 ルール通りだった。


 名前は残さない。


 記憶も残さない。


 その方が、この街では傷つかずに済むからだ。


 翌朝。


 大学の実験室で、僕は白衣に袖を通していた。


 薬品を扱い、いつものように手を洗う。


 水道の蛇口を止める。


 その時、ふと自分の指先が目に入った。


 冷たい指。


 白い指。


 誰の肌も、本当には掴んでいない指。


 その瞬間だった。


 脳裏に、昨夜の四十二階の記憶が、鮮烈な湿度を持って戻ってきた。


 高価な香水。


 消毒液の匂い。


 網の目のように流れる首都高速の光。


 短く切り揃えられた爪。


 そして、あの荒れた指先。


 消したはずなのに、身体が覚えている。


 初めてだった。


 仕事相手の生々しい記憶が、自分の肉体に消えない微熱として残ったのは。


 窓の外を見上げる。


 昼間のビル群の隙間に、東京タワーがそびえ立っていた。


 昨夜見たあの赤は、遠くから見ると、非常口のランプみたいだった。


 逃げ道の場所だけを、静かに照らしている。


 僕は、自分の冷たい指先を見つめる。


 そして、昨夜彼女が残していったメスのような言葉を、静かに反芻していた。


 ――蓮くんって、本名?


 水道の蛇口から、最後の一滴が落ちた。


 ぽたり。


 その冷たい音だけが、やけに大きく、僕の耳の奥で響き続けていた。

ここまでお読みいただきありがとうございました。


第2話は、「完璧であること」に疲れた女性の話でした。


少しでも印象に残りましたら、評価・いいね・ブックマークなどで応援していただけると嬉しいです。


次話は、西麻布の夜。

少し違う光の下で、また別の孤独を描きます。

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