第1話 名前を呼ばれたい女
――港区の彼氏は、時給四千円で名前を呼ぶ――
東京という街は、人間の欲望にやさしい。
金も、性も、承認欲求も、寂しさも。
カードさえ通れば、だいたい何でも買える。
だからこの街では、自分が本当に欲しかったものだけが、最後まで分からない。
時給四千円。
港区では、タクシーを少し遠くまで走らせるくらいの金額で、恋人が買える。
安すぎれば遊びになる。
高すぎれば愛人になる。
四千円は、恋ではないと言い張るための、冷たい境界線だった。
僕は救世主じゃない。
カウンセラーでもない。
一時間四千円で、誰かの理想の恋人を演じるだけの大学生だ。
ただ、人は本当に寂しい夜だけ、よくできた嘘を愛と間違える。
スマートフォンを開く。
アドレス帳に、顧客の本名はない。
『麻布十番・医療・二十五階』
『白金高輪・アパレル・十八階』
『赤坂・経営者・四十一階』
街と職業と住んでいる高さ。
東京では、その三つで人間の値段がだいたい決まる。
今夜の依頼人は、
『六本木・主婦・三十六階』
だった。
金曜の深夜二時。
六本木のホテルラウンジは、まだ眠っていなかった。
低いジャズ。
薄いグラスの音。
高い酒。
どれもきちんと磨かれていて、どこか無菌室みたいだった。
窓際の席に、彼女はいた。
美咲さん。
毛先まで整えられた髪。
シャネルのジャケット。
足元のバーキン。
雑誌の切り抜きみたいな女だった。
指で触れても、紙の感触しかしない気がした。
ただ、シャンパングラスを持つ指先だけが、不自然なくらい白かった。
「お待たせしました、美咲さん」
名前を呼ぶと、彼女のまつげが少し跳ねた。
「……ちゃんと名前、覚えてくれたのね」
「仕事ですから」
僕は笑った。
彼女たちの多くは、高価なプレゼントより先に、名前を欲しがる。
バッグも、夜景も、予約困難な店も、もう持っている。
持っていないのは、自分を自分として呼ぶ声だけだ。
「行きましょうか。車、回してあります」
ホテルの車寄せから、彼女の車を運転して、深夜の港区へ出た。
車内は静かだった。
ウインカーの音だけが、やけに大きい。
カチ。
カチ。
カチ。
壊れかけた心拍みたいだった。
赤信号で車が止まる。
助手席から伸びてきた美咲さんの指が、僕の手に少し触れた。
意味なんて、たぶんない。
でも、東京の夜は、意味のない触れ方ほど危ない。
僕は握り返さなかった。
「触らないの?」
「契約違反です」
「……変な仕事」
「よく言われます」
「でも、その方が怖い」
「何がです?」
「触られない方が、ちゃんと見られてる気がする」
僕はバックミラー越しに、彼女の横顔を見た。
美しい人だった。
そして、美しいことに疲れている人だった。
「美咲さん」
「なに?」
「帰りたいですか?」
「……なんで?」
「時計、ずっと触ってる」
彼女の指が止まった。
カルティエの細い時計が、街灯の光を冷たく返す。
「見すぎ」
「仕事なんで」
「最低ね」
「ありがとうございます」
「褒めてないわよ」
彼女は少し笑って、窓の外へ顔を向けた。
ビルの隙間に、東京タワーが赤く光っている。
「綺麗ですね」
僕が言うと、美咲さんは、東京タワーを見ないまま笑った。
「三十階以上に住むとね、東京タワーって毎日同じ顔なの」
「飽きますか」
「慣れるの。綺麗なものに慣れるって、けっこう残酷よ」
それから彼女は、少し黙った。
「ねえ、蓮くん」
「はい」
「最近、“美咲”って呼ばれると、一瞬だけ反応が遅れるの」
「どうしてです?」
「自分の名前じゃないみたいだから」
泣いていない声だった。
だから痛かった。
「インスタでは毎日、可愛いって言われるわ。羨ましい、とも。幸せそう、とも」
「人気なんですね」
「でも、一回も嬉しくない」
彼女は唇に指を当てた。
口紅が、少しだけ乱れる。
「みんな、私の後ろを見てるの。部屋とか、夫とか、バッグとか、店とか。私じゃなくて、背景を見てる」
僕は何も言わなかった。
慰めは安い。
安い言葉は、こういう女たちを余計に傷つける。
「だから、今夜の依頼ですか」
彼女の依頼は変わっていた。
夫のいる部屋へ迎えに来ること。
数時間、恋人として外へ連れ出すこと。
そしてまた、夫の前へ送り届けること。
車は、麻布台のタワーマンション地下へ入った。
エレベーターは音もなく上がる。
三十六階。
ドアが開くと、空気が変わった。
部屋は美しかった。
広すぎるリビング。
高すぎるソファ。
開封されないまま置かれたエルメスの箱。
贅沢品というより、透明な壁に見えた。
ソファには、男が座っていた。
美咲さんの夫。
白いシャツ。
薄いワイングラス。
静かな目。
僕たちを見ても、少しも驚かなかった。
「おかえり」
夫は穏やかに言った。
「ただいま」
美咲さんの声から、さっきまでの湿度が消えた。
夫は彼女の爪を見た。
「今日は赤なんだね」
「何が?」
「ネイル。先週はベージュだった」
美咲さんの眉が、少しだけ動いた。
「……覚えてたの」
「当たり前だろ」
夫はワインを置いた。
「君のことは、だいたい見てるよ」
その言葉で、分かった。
この男は、美咲さんを見ていないわけじゃない。
むしろ、よく見ている。
体調も、予定も、好みも、機嫌も。
たぶん全部、正確に把握している。
でも、それは愛というより、管理に近かった。
「冷えるだろ」
夫はブランケットを取り、美咲さんの膝へかけた。
手つきは、長年使っている高級時計を扱うみたいに丁寧だった。
優しかった。
だから、苦しかった。
この部屋には、悪人がいない。
ただ、誰も素手で触れようとしないだけだ。
「今日はどうだった?」
夫が聞いた。
「普通よ。少しドライブしただけ」
「そう。楽しめたなら良かった」
それ以上、夫は聞かなかった。
聞かないことも、彼なりの優しさなのだろう。
美咲さんは僕を見た。
「蓮くん、ありがとう。もう大丈夫」
もう行って。
目がそう言っていた。
僕は頭を下げて、部屋を出た。
エレベーターの鏡に映った自分の顔は、どこかレンタルされた他人みたいだった。
恋人のフリは得意だった。
優しい言葉も、欲しい視線も、呼ばれたい名前も、だいたい分かる。
でも、自分が誰かを本気で好きだった記憶だけ、もうずっと思い出せない。
エントランスの外に出ると、夜の終わりの風が頬を撫でた。
「蓮くん」
振り返ると、美咲さんがいた。
ガラスの自動ドアの向こうから、こちらへ歩いてくる。
裸足ではなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、肩だけが少し震えていた。
「最後くらい、ちゃんと挨拶しようと思って」
「美咲さん」
僕は、いつもの声を作った。
冷たくて、柔らかくて、踏み込まない声。
「一時間が経ちました」
彼女は僕を見た。
「……延長、しますか?」
過去の客は、だいたいここで財布を開いた。
寂しさは、終わりが見えた瞬間に濃くなる。
けれど、美咲さんは、少し黙ったあと、静かに笑った。
「やめとく」
「理由を聞いても?」
「あなた、本当に人のことを好きになったら、たぶん壊れるタイプだから」
胸の奥を、細い針で刺された気がした。
「私の寂しさにこれ以上付き合ったら、あなたの空っぽまで見えちゃう」
初めてだった。
客に、僕の中を見られたのは。
「それ、本気になるから規約で禁止なんでしょ?」
僕は少し笑った。
「……そうですね」
「真面目ね」
「仕事ですから」
「そこ、少し嫌い」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
美咲さんは笑った。
その笑い方だけが、今夜で一番、彼女らしかった。
「ありがとう、蓮くん」
「ありがとうございました、美咲さん」
ガラスの自動ドアが閉まる。
美咲さんはまた、あの完璧な部屋へ戻っていった。
誰も悪くない檻の中へ。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
報酬振込完了の通知。
四千円。
この街では、少し遠くまでタクシーを走らせれば消える金額だ。
僕はアドレス帳を開いた。
『六本木・主婦・三十六階』
その文字を消す。
仕事相手の名前は残さない。
その方が楽だからだ。
だけど、指は勝手に動いた。
『美咲』
白い画面の中に、二文字が浮かぶ。
僕はしばらくそれを眺めてから、無意識に、自分の名前を打ちかけて止めた。
東京タワーは、今日も同じ赤だった。
たぶん、明日も。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
「名前を呼ばれたい女」の話でした。
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次話は、銀座の美容外科医の夜です。




