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三代目家康 ― 推しのために天下取ります ―  作者: チャプタさん


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第722節『信雄の変節』

第722節『信雄の変節』

 伊勢長島城は、泥色の水に浮かぶ孤島と化していた。

 降り続く豪雨に加え、秀吉軍が築いた堤によって河川の水が溢れかえり、城壁の裾を洗っている。城内に響くのは、風雨の音と、遠くから聞こえる敵兵の嘲笑うような鬨の声だけだった。

 織田信雄は、広間の奥で膝を抱え、震えていた。

 かつて父・信長の威光を背負い、天下を睨んだ自尊心は、冷たい雨に打たれて見る影もなく萎びていた。

「……来ぬ」

 彼は、うわ言のように呟いた。

「家康は……まだ来ぬのか」

 浜松へ放った使者は戻った。だが、持ち帰ったのは援軍ではなく、「耐えよ」という冷酷な一言だけ。

 信雄の脳裏に、どす黒い霧が広がる。

 長久手で勝利したという報せは届いている。徳川は勝ったのだ。ならば、なぜ助けに来ない? 十万の敵を追い返した精鋭が、なぜ伊勢を見捨てる?

(……まさか)

 かつて、家老たちを粛清した夜の記憶が蘇る。あの時、家康は「徳川は全軍をもって支える」と誓ったはずだ。

 だが今、その誓いは反故にされている。

(あやつもまた……わしを利用し、そして捨てようとしているのか?)

 疑心は、一度芽生えれば毒蔦のように心を覆い尽くす。彼がかつて忠臣を疑い殺したその心の隙間に、今度は盟友への不信が深く根を張ったのだ。


 その心の闇を見透かすように、城門を叩く者があった。

 秀吉からの使者である。

 濡れそぼった直垂を気にすることもなく、使者は信雄の前に平伏した。その手には、太刀でも脅迫状でもなく、豪奢な金襴の袋に包まれた書状が握られていた。

「羽柴殿よりの、最後通牒にございます」

 使者の声は、意外なほど穏やかだった。

「殿は、信雄様のお立場を深く憂慮されておられます。奸臣・家康にそそのかされ、義なき戦に巻き込まれたことを」

 信雄は顔を上げた。

「……何だと?」

「家康は、信雄様を盾にして自らの領国を守っております。長久手での勝利も、所詮は自衛のため。彼が真に信雄様を想うなら、なぜ今、この城に一兵も送らぬのですか?」

 その言葉は、信雄の胸の傷口に、焼けた鉄を押し当てるように痛烈だった。

 使者は続ける。甘く、抗いがたい毒を注ぐように。

「ですが、殿は寛大であらせられます。今ここで家康と手を切り、和睦に応じるならば……伊勢・尾張の所領はそのまま安土し、織田家の当主としての地位も保証すると仰せです」

 領地の安堵。当主の座。

 それは、今の信雄が喉から手が出るほど欲している「生存の保証」だった。

 側近たちが、すがるような目で主君を見る。

「殿……。これ以上の籠城は不可能です。兵糧も尽きかけております」

「徳川殿は来ません。我らは、生き残る道を選ばねば……」

 彼らの声は、信雄自身の心の叫びでもあった。


 信雄は、震える手で書状を受け取った。

 そこには、秀吉の花押が鮮やかに記されている。

 これを結べば、家康を裏切ることになる。共に戦った盟友を、梯子を外して敵中に置き去りにすることになる。

 だが――。

(わしは、死にたくない)

 その根源的な恐怖が、武士の義理を押し流した。

 そして、歪んだ自己正当化が頭をもたげる。

(裏切ったのは家康の方だ。勝ったくせに来ない。わしを見捨てたのだ。ならば、わしが生きるために何をしようと勝手だろう!)

 かつて家康が植え付けた猜疑心の種が、ここで最悪の果実を実らせたのだ。因果は巡り、放った矢が自らに返ってきた。

「……筆を持て」

 信雄の声は、奇妙に乾いていた。

「和睦する。……これは降伏ではない。織田の血を残すための、英断である」

 誰に対する言い訳か、彼は独りごちると、震える筆先を紙に落とした。

 その一筆が、小牧山で鉄壁を誇った徳川軍の足元を、根底から崩れ去らせることを知りながら。


 数日後。小牧山、徳川本陣。

 早馬がもたらした報せに、天幕の中は凍り付いた。

「――織田信雄殿、羽柴秀吉と単独で講和! 伊勢・尾張の兵は武装を解き、秀吉軍を受け入れております!」

 本多忠勝が、信じられないという顔で立ち尽くす。

「な……何ということだ! 我らは信雄殿を守るために戦っていたのではなかったのか! その御本人が、我らに相談もなく敵に簡単に膝を屈したというのか!」

 戦うための大義名分――「信長公の遺児を守る」という旗印が、この瞬間、消滅した。

 これ以上戦えば、徳川軍はただの「朝敵」となり、逆賊の汚名を着ることになる。

 家康は、扇で口元を覆い、深いため息をついた。

(……やはり、そうなったか)

 歴史研究家としての理性が、歴史の強制力に納得している。だが、感情は鉛のように重かった。

 自らが煽った疑心が、信雄を孤立させ、結果として秀吉の調略を受け入れやすくしてしまった。

 戦術では完勝した。だが、戦略という巨大な盤面の上で、秀吉の手のひらで転がされていたのは自分たちだったのだ。

「……殿」

 酒井忠次が、沈痛な面持ちで進言する。

「大義を失った今、これ以上の対陣は無益。……撤退のご決断を」

 家康は、雨に煙る南の空を睨みつけた。そこには、もはや守るべき友軍はいない。

「……全軍に伝えよ」

 その声は、敗軍の将のように低く、しかし断固としていた。

「――退くぞ。……我らは、負けたのだ」

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