第721節『標的変更』
第721節『標的変更』
小牧山の本陣を叩く雨音は、夜半を過ぎてもやむ気配がなかった。
家康は泥に汚れた天幕の薄闇に座し、半蔵が届けた凶報を胸の奥で繰り返し噛みしめていた。
「――羽柴秀吉、主力を伊勢へ転進。蒲生氏郷、筒井順慶らを先鋒に、織田信雄殿の属城を連続して攻略中」
冷たい刃物のような報告だった。
半蔵は淡々としていたが、その声の裏には“すでに手遅れ”という絶望が濃く滲んでいた。
「伊勢は連日の豪雨で河川が氾濫。敵はその水勢を利用し、松ヶ島城を水攻めにしております。持ちませぬ」
家康は瞬時に盤面を計算し――答えはひとつだった。
(……完全に一本取られた)
唇を噛み、鉄の味を喉へ流し込んだ。
紀州と四国から秀吉の背後を締め上げ、二方面を支えきれぬよう追い込み、正面戦は封殺した。それは完璧な策だった。
だが、その完璧さが秀吉の視野を強制的に変えてしまった。
(逃げ道を塞がれた秀吉は……最も弱い柵を破りに行った。奴の標的は俺じゃない。同盟者の信雄だ)
家康との決戦というこだわりを捨て、
もっとも脆く、もっとも早く折れるところへ――政治的勝利へ向けて一直線に。
(これは結局……俺が秀吉を追い詰めすぎた代償か。どうやってもこうなるということか)
策の副作用。
その皮肉が、胸を灼くように痛めつけた。
翌朝。
伊勢から駆け込んだ正式な援軍要請が、本陣の緊張を一気に切り裂いた。
泥水に濡れた使者は、畳に額をこすりつけながら絶叫する。
「お助けを! 敵勢は水攻めで城を次々と落とし、伊勢は沈みつつあります! 信雄様は『家康殿は未だか!』と狂乱に近いお姿で……!」
本多忠勝が立ち上がり、怒気で顔を真っ赤にした。
「殿! このままでは信雄殿が! 一刻の猶予もありません、全軍を挙げて伊勢へ!」
井伊直政も叫ぶ。
「徳川の義を見せる時! 見殺しにすれば、我らの戦はすべて汚れます!」
その言葉は正しい。
義理、人情、大義――どれも家康の側にある。
だが家康は動かない。
扇子を握り締め、地図を睨むその目は、感情を殺した獣のように冷たかった。
小牧山の周りには、秀吉が残した“抑え”の軍勢数万が依然としている。
彼らは戦うためではない。徳川軍が一歩でも動いた瞬間に噛みつくためだけの軍だ。
「……ならぬ」
家康の声は、雨よりも冷えきっていた。
「今ここを動けば、背後から秀吉軍が雪崩れ込む。伊勢へ向かう前に、三河が焼かれる」
それは、王手飛車取り――“詰み”だった。
忠勝が震える声で問う。
「……では、信雄殿を……見捨てるのですか」
その問いは、家康の胸の奥を鋭く抉った。
自分が焚きつけ、三家老を殺させ、政治の表舞台へ引きずり出し、利用した男。
その信雄を、今ここで見捨てるのか。
(……俺は、どこまで地獄を背負えばいいんだろう)
自嘲すら湧かなかった。
だが、感傷で国は守れない。
家康は顔を上げ、鬼のような目で評定の間を見渡した。
「動けぬ。……これは現実だ」
その声音には、己を刺すような苦味と諦観が混じっていた。
雷鳴が鳴り響き、伊勢方向の空が濁った黒へと染まっていく。
信雄の心が音を立てて崩れ落ちていくのが、まるで目の前で起きているように感じられた。
救いの来ない絶望。
信頼が裏切りへ変わる瞬間。
(……また、史実の流れに戻されてしまうのか)
家康は目を閉じ、深く息を吐いた。
その吐息には、ただの苦渋ではない――もっと深い、どうしようもない歴史の壁への敗北が滲んでいた。




