第720節『泥沼の対陣』
第720節『泥沼の対陣』
空が泣いているようだった。
長久手の死闘から時間が経ち、季節は梅雨へ入り、小牧山は湿りきった空気に押し潰されていた。
止む気配のない雨は、徳川が誇った防備の土塁をみるみる泥へ戻し、溝には濁った水が溜まり続ける。兵らは膝まで泥に沈んだまま、濡れた槍を抱いてぼんやりと空を仰ぐばかりで、もはや勝鬨の影も残っていなかった。
動かぬ戦況。
終わりの見えぬにらみ合い。
鋼のぶつかり合いよりもずっと静かで、ずっと深く、兵の心を蝕む戦だった。
櫓から家康は、雨に煙る秀吉の陣を睨み下ろした。
その陣は、驚くほどさらに拡大している。秀吉は小牧山を完全に囲う巨大な土塁と堀――まるで城郭の外郭のようなものを築き、徳川軍を物理的に閉じ込めてしまっていた。
(……これが、天下を掴みかけた男の底力か)
戦では勝ったはずだ。長久手で秀吉に大きな傷を負わせた。
普通なら撤退する。士気は折れる。
だが秀吉は折れなかった。むしろその傷を埋めるように、無尽蔵の兵力と物資を流し込み、戦線を平然と維持している。
(紀伊も四国も、せっかく揺さぶったのに……結局、泥沼に入ってしまうのか)
そんな嫌な予感が胸に重く沈んだ。
「……千日手か」
家康の言葉は雨に溶けた。
動けば消耗し、動かなければ国力差で締め上げられる。
気づけば勝っているはずの自分が檻の中の獣のように追い詰められている。
一方その頃、秀吉の本陣もまた穏やかではなかった。
秀吉は大坂・京方面から届く報告書を次々と叩きつけていた。雑賀衆の蠢動、長宗我部の海上妨害、各所での反乱じみた火種――どれも、家康が仕掛けた包囲網が効いている証拠だった。
「この小蝿どもが……恒興も長可も奪われ、なおこの仕打ちか……!」
家康への恨みは冷えず、それどころか長雨と悪報でますます膨れあがっている。
だが小牧山は堅すぎる。下手に攻めれば大損害。
かといって背後の火を消しに引けば、家康が降りてくる。
秀吉の怒気が満ちる中、官兵衛が静かに、しかし残酷な提案を落とした。
「殿。岩を叩き割ろうとするから手を痛めるのです。岩を支える土台を崩せばよい」
「……土台?」
「織田信雄にございます」
その名を聞いた瞬間、秀吉の目が細く笑った。
「家康の戦う理由は、信雄様を守るただ一点。逆に言えば――信雄様が屈すれば、家康は理由を失います」
官兵衛は地図の伊勢国を扇で叩いた。
「家康をここに縛り付けたまま、別働隊で伊勢を蹂躙するのです。信雄様が悲鳴を上げても、家康は動けぬ。動けば、その背を殿下が噛み砕けばよい」
あまりに冷酷で、しかし理に適った一手だった。
秀吉は、怒りの底から笑みを浮かべた。
「……なるほどな。勝つ必要はない。終わらせればよいのだ」
翌朝。
家康は秀吉陣の気配の変化をいち早く察した。旗も兵数も昨日と変わらない。だが、そこにあった鋭い殺気だけが抜け、代わりに重苦しい蓋のような圧力だけが残っている。
「……抜いたな」
源次の背に悪寒が走った。
秀吉は主力を別方向へ動かしている。だが、どこに――?
思考が地図の一点に辿り着いた瞬間、家康は低く呻いた。
「……伊勢か!」
本多忠勝が即座に叫ぶ。「殿、追撃を!」
「ならぬ! 動けば背中を裂かれる!」
小牧山の外には、徳川軍を押さえつけるためだけに残された壁としての秀吉軍がいる。
動けば襲われる。
動かなければ信雄が落ちる。
家康は雨に煙る南空を睨み、拳を握り締めた。
(……完全に封じられた。動いて襲われた方が良いのか?いや、結局、ここまで寄せられた以上、流れに逆らうのは難しいということか……)
気づけば、すでに詰みの寸前まで組み上げられていた。
泥沼の対陣は、ついに最悪の形で動き始めたのである。




