第719節『膠着への転換』
第719節『膠着への転換』
小牧山の南。羽柴秀吉の本陣には、怒気と悔恨が入り混じった重い空気が漂っていた。
長久手で失われた池田恒興、森長可――秀吉が古くから頼りにしてきた猛将たち。その死は、何より彼自身の胸を抉っていた。
(あれほどの功臣を……家康め、よくも)
紀州と四国からの急報が届いた時、秀吉の拳は怒りと焦りで震えた。
勝つつもりだった。すり潰すつもりだった。
だが大坂を脅かす火の手は、その「勝ち」を地ごと飲み込む。
「……おのれ、家康。わしの痛いところを突きおって」
声は低く、怒号よりも冷たい。
復讐の炎は胸に燃えていたが、それだけで動けば、さらに大事を失う。
秀吉はそれを理解するだけの男だった。
黒田官兵衛が口を開く。
「殿下。いま突くは悪手。されど退けば恐れて逃げたと世に言われましょう」
「ならばどうせよと言うのだ!」
「……止まるのです。動かずして家康を縛るのです」
官兵衛の指が、地図の上に大きな輪を描く。
「殿下がここで大陣を築けば、家康は動けませぬ。動けば背後を討たれる。まさしく釘付け」
秀吉の瞳が細く光った。
恨みは消えない。恒興も長可も帰らない。
だが、ここで家康を逃がせば、その死が本当に無駄になる。
「……よかろう。ならば奴を生きたまま閉じ込めてやる。山ごとな」
扇を叩きつける音が、周囲の空気を震わせた。
「全軍に普請を命じよ! 小牧山を囲む長大な堀と土塁を築け! 奴を一歩も出すな!」
復讐は、力押しではなく包囲という形に姿を変えた。
――小牧山、徳川本陣。
羽柴軍から殺気が消え、代わりに土木の轟音が大地を揺らし始めたのを、家康は櫓の上でいち早く察した。
「……始まったか」
酒井忠次が目を見開く。
「敵、退かず……陣を築き始めましたぞ」
瞬く間に平野へ引かれていく巨大な土塁の線。
それは、徳川を山に縫いつけるための檻だった。
本多忠勝らは安堵混じりに笑みを漏らす。
「総攻撃は止んだか!」「押し返したのだ!」
だが家康だけは、唇を噛んでいた。
(……よりにもよって、この形か。史実と同じ流れに入ってしまった)
家康は策を弄して、紀伊・四国からの圧力によって秀吉を撤退させるはずだった。
しかし、秀吉は折れなかった。むしろ執念を固め、二方面を同時に維持してきた。
(これでは……こちらが干上がる。小牧山で兵を抱えたまま膠着になれば、いずれ国力の差で押し潰される)
未来へ続く負け筋に、自分から足を踏み入れてしまったような嫌な感覚が、背筋を冷たく撫でた。
「……喜ぶな!」
家康の一喝が、浮かれた空気を叩き割った。
「敵は逃げたのでない。我らをここで腐らせるつもりだ。気を緩めるな。これよりが本当の地獄ぞ」
その時、空からひと粒の雨が落ちた。
やがて雨は長雨へ変わり、両軍の陣地を泥へ沈めていく。
長久手の動の激戦は終わり、逃げ場のない静の戦いが、音もなく幕を上げようとしていた。




