第718節 『崩走』
第718節 『崩走』
「殿! なりませぬ!」
黒田官兵衛が青ざめた顔で秀吉を止めようとする。彼ほどの冷静な策士が、ここまで取り乱すのは異常だった。
「怒りに飲まれてはなりませぬ! 家康は、殿下が我を失うことを待っております! あの山は要塞、力攻めでは被害が――」
「ええい、うるさいぞ、官兵衛!!」
秀吉は軍師の発言を一蹴した。官兵衛は必死に食い下がろうとしたが、秀吉の目には、もはや理屈を受け止める余地はない。その目は、戦場で敵を見据える猛獣のように血走っていた。
「数で押せばよいのじゃ! 十万で踏み潰せば、土塊の城などひとたまりもないわ! 行く! わしが先頭じゃ!」
狂気は火のように周囲へ拡がる。秀吉の凄絶な怒気に触れ、羽柴軍の空気が一変した。整然とした戦列が解け、兵たちの顔に殺気が浮かぶ。誰も止められない。いや、止めようという意志すら、怒気の奔流に飲み込まれていった。
号令の太鼓が鳴り響き、軍勢は動き始める。通常の進軍とはまるで違う。隊列は乱れ、押し合い、殺到し、まるで怒りそのものが形を取って押し寄せてくるようだった。
――その数里北。小牧山。
本陣の櫓から羽柴陣を眺めていた家康は、背筋を氷で撫でられたような寒気を覚えた。遠目にも異常だ。羽柴の陣から立ち昇る、どす黒い陽炎のような殺気。旗は乱れ、隊列は押し潰れるように前へ前へと波打っている。
(……やばい。これは秀吉がおそらくキレたぞ)
家康は扇で口元を隠し、冷や汗を拭った。彼は歴史知識により秀吉を最もよく知っている者の一人であったはずだが、それでも「ここまで」は想定していなかった。
(計算外……いや、計算通りすぎて最悪だ。恒興を討てば引くはず、合理で動くならそうだ。しかし……俺は秀吉の“情”を甘く見た)
乳兄弟を殺された怒り。それが天下人の理性を焼き切ったのだ。秀吉は打算と情が混ざった人物だが、その“情”が振り切れた時の暴走は、戦略を超えて戦場全体を呑み込む。
「殿」
本多忠勝が険しい顔で言う。
「敵の動き、常軌を逸しております。あれは陣形ではなく、ただの殺到。……受ければ、こちらも無事では済みませぬ」
忠勝ほどの猛将が、言葉に慎重さを滲ませている。それはつまり、羽柴軍の“怒涛”が本物の災害レベルに達しているという証だった。
小牧山の守りがどれほど堅くとも、十万の狂乱兵に押しつぶされれば限界は来る。勝てても徳川軍は壊滅――それでは意味がない。
(止めねば……。だが、どうする?)
焦燥が胸を締めつける中、源次は西の空を見上げた。あの方向には、彼が打った縁の下の一手がある。史実の流れなのか否かの賭けであったが。しかし今はそれに縋るしかなかった。
(頼む……間に合え)
祈るように空を睨んだ、その時だった。
西の空。伊勢・紀州の方角から――一本の狼煙が上がっていた。
黒く、太く、天を突く煙。風に流されず、まるで意志を持つかのように真っ直ぐだった。
それは戦場の誰にも向けられていない。ただ一人、羽柴秀吉の背に突き刺すためだけの凶兆だった。
その煙を認めた瞬間、家康は安堵で膝が抜けそうになるのをこらえ、口元をわずかに緩める。
「……間に合ったか」
歴史の修正力か、それとも家康の執念か。戦場の外側から、戦局そのものを強制終了させるための「詰み」の一手が、ついに盤上へ現れたのだった。




