表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三代目家康 ― 推しのために天下取ります ―  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

723/1000

第723節『敗北の撤退戦』

第723節『敗北の撤退戦』

 小牧山を包んでいた鉄の規律が、緩んだ空気へ変わるのに時間はかからなかった。

 撤退の太鼓が、湿った空気に鈍く沈んで響く。昨日まで秀吉の大軍を震え上がらせていた堅固な土塁は、守るべき主を失い、雨に打たれるただの土の山へと成り下がっている。陣払いが静かに進む中、兵たちの口数は少なかった。

 彼らは負けたわけではない。

 長久手では敵の猛将を討ち取り、この小牧山では全く怯まず秀吉の攻勢を弾き返した。

 戦場での勝利は、誰もが肌で感じていた。

 ――なのに、なぜ国へ逃げ帰るように撤兵せねばならないのか。

 理不尽な徒労感が、鎧の重み以上に彼らの肩にのしかかる。

「……クソッ!」

 隊列の中ほどで、井伊直政が拳で鞍を殴りつけた。一瞬だけ周囲の沈黙が裂けたが、誰も咎める者はいなかった。

 真紅の具足は長久手でついた傷と泥に覆われ、かつての鮮烈さはもうない。だが彼が悔やむのは、鎧の汚れではない。

 血の意味が、霧散したことだ。

「岩崎で散った丹波氏重殿は、何のために死んだ! 長久手で討ち取った首の数々は、いったい何のための手柄だったのだ!」

 噛み締めすぎた唇から血がにじむ。

「戦では勝った! なのに、どうして負け犬みたいに尻尾を巻かなきゃならんのだ!」

 その激情と並走するように、黒い影が寄った。新太だ。

 彼は直政のように吠えはしない。ただ前を見据えたまま、手綱を握る指の関節だけが白く浮かび上がっていた。

「……直政。吠えるな」

「新太、お前は悔しくないのか!」

「悔しい。胃が煮え返るほどにな」

 新太は低く絞るように答えた。

「だがな、一番悔しいのは……俺たちじゃない」

 新太の視線が、隊列の遥か先頭に向かう。

 金扇の馬印の下、微動だにせず進む総大将――徳川家康。

「殿は、この理不尽をすべて呑み込んだ上で、胸を張っておられる。俺たちが俯けば……殿の背中に泥を塗ることになる」

 直政はハッとして家康の背を見た。

 霞の向こうに見えるその背中は、敗軍の将のそれではない。

 むしろ勝ち戦よりも厳しく、そして孤独だった。

 軍勢を牽くというより、全員がその背中にしがみつき、誇りだけを支えられているかのようだった。

「……俺が浅はかだった」

 直政は乱暴に顔を擦り、涙を消すように前を向いた。

 

 だが、その先頭を行く家康――源次の心は、兵が思うほど強くはなかった。

 馬の揺れに合わせて、胃の底が焼けるように軋む。

(……これが政治の敗北か)

 こうなる可能性を知っているはずの自分でも、歴史の巨大な流れからは逃れられない。

 信雄の脆さ、秀吉の異常なまでの転換速度。

 その二つが噛み合った瞬間、完勝の盤面がひっくり返された。

 背後から伝わる兵たちの失望は、言葉にならずとも痛いほど突き刺さる。

 彼らに勝利の果実を与えられなかった無力感が、胸の奥に澱のように沈んでいく。

(俺がここで折れれば……徳川は、本当に負け犬になる)

 もし自分が背を丸めた瞬間、秀吉は躊躇なく追撃の狼を放つだろう。

 そうなれば三河は焦土だ。

 歴史はもっと悪い方向へと転がる可能性もある。

(……堂々としていろ。負けたんじゃない。勝負の土俵が動いただけだ)

 家康は必死に自分を奮い立たせた。

 三河武士の棟梁として振る舞い続けるために。

 傷つき、疲れた兵たちが、それでも誇りを失わず故郷へ帰れるように。

 それが、死んだ友から名を借りて生きる自分が背負うべき義務だった。

 

 三河の国境に差し掛かったとき、風が変わった。

 湿った梅雨風が消え、冷たい乾きが皮膚を刺す。

 木枯らしだった。

 枯れ葉が舞い、馬のたてがみに絡む。

 遠江の空は高く、凍えるほどに澄んでいた。

 これはただの季節の変わり目ではない。

 戦国の熱が薄れ、豊臣の政治が冷徹に世界を支配していく――そんな冬の到来を告げる風だった。

 浜松城の天守が遠くに浮かび上がる。

 源次は冷風に目を細め、遠い大坂の空に座す男へ心の中で語りかけた。

(……秀吉よ。今回はお前の勝ちだ。盤外から足をすくうその手腕、やはり凄い男だった。完敗だ)

 手綱を強く握る。

(だが、忘れるなよ。俺はまだ生きている。三河武士も牙を失っていない。

 冬が来るなら、耐えてやる。雪に埋もれても根を張る。

 ――最後に笑うのが誰か、見ていろ)

 城門が開く。

 凱旋ではない、沈黙の帰還だ。

 だが、その足音は重く、大地に深く刻まれていた。

 家康は、これから始まる長い雌伏の日々を、静かに受け入れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ