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第715節『決着の時』

第715節『決着の時』

 戦場の喧騒が、不意に遠のいたように感じられた。

 泥濘に踏みとどまる新太と、最後の突撃を敢行した池田恒興。ふたりの間には、死の匂いすら凍りつかせるような静寂が広がっていた。

 新太は名乗らない。呼吸を整え、切っ先をただ一点――敵の喉元に据える。そこには、武田仕込みの古式も、功名を求める欲もない。研ぎ澄まされた殺意だけがあった。

 対する恒興は、全身から血を流しながらも口角を吊り上げた。折れかけた太刀を握り直す姿は、老いた獣が最期に見せる獰猛な気迫そのものだった。

「……貴様か。我が軍を掻き回し、長可の足を止めた鼠は」

 血泡を吐きながらも、声にはまだ武将の意地が宿る。

「良い面だ……。だが、その槍でこの池田勝入が止まると思うなよ!」

 咆哮と同時に、恒興の巨体が地を蹴った。

 重傷とは思えぬ踏み込み。全身の重みを刃に乗せた太刀は、風切り音を纏いながら新太の頭蓋を割らんと迫る。

 それでも新太は動かない。

 刃が鼻先を掠める寸前まで引きつけ――刹那、沈む。

 空を切った太刀が巻き起こす風が、新太の髪を乱した。

 その刹那、黒い影が恒興の懐へ滑り込む。

「――」

 呼気すら漏らさぬ一閃。

 新太の槍が、恒興の脇腹――鎧の草摺のわずかな隙間へ吸い込まれた。

 硬い手応え。続いて、肉を割く生々しい感触。

 穂先は深々と肉体を貫き、恒興の背へ突き抜けた。

 時間が止まる。

 恒興の太刀が、指の間から零れ落ちる。泥を叩く鈍い音。

 巨体が揺れ、ゆっくりと新太の肩へ倒れかかった。

 新太は槍を抜かず、重みをその身で受け止める。耳元に、荒く濁った呼吸が届く。

「……見事だ」

 不思議なほど穏やかな声だった。

 敗北の悔しさはあっても、怨みはない。より鋭い刃に倒れたことへの武人としての納得がある。

 血に濡れた恒興の手が、新太の肩を強く掴む。

「……家康に、伝えよ……」

 喉奥で血が鳴る。

「我らをおびき出し、分断し、ここまでの死地を作り上げた……あの手腕……。見事であった、と。……猿め、良い敵を持ったものよ……」

 織田家中の宿将が、徳川家康へ贈る最大級の賛辞だった。

 掴んだ手の力が抜け、恒興の身体は泥の中へ崩れ落ちる。

 瞳の光が消え、稀代の武人は骸となった。

「――父上ぇぇぇッ!」

 絶叫が戦場を裂いた。

 少し離れて奮戦していた嫡男・池田元助が、父の最期を目撃し、狂乱の形相で駆け寄ろうとする。

 だが、進路はすでに塞がれていた。

 井伊の兵が組む槍衾――個の武勇では突破できぬ冷徹な集団の壁。

 元助は父の名を叫びながら、無数の槍に突き貫かれた。

 親子二代の猛将が、長久手の土へと還った瞬間であった。

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