第714節『猛将の意地』
第714節『猛将の意地』
乾いた銃声の余韻が消えぬうちに、悲報は風よりも速く戦場を駆け抜けた。
「――鬼武蔵、討ち死に!」
その一報が池田恒興の陣に届いた瞬間、老将の時が止まった。恒興は、泥にまみれた伝令の顔を呆然と見つめたまま、握りしめた拳が白く変色するのを感じていた。
森長可。彼にとって、ただの娘婿ではない。亡き信長に託された猛き槍であり、織田家の血脈と武威を未来へ繋ぐ象徴だった。それが、徳川の小賢しい策によって果てたというのか。
「……長可が……逝ったか」
絞り出すような呟きは、瞬く間にどす黒い絶叫へと変わった。
「おのれ家康ッ! 飛び道具とは卑怯な! 武士の風上にも置けぬ男が!」
血が滲むほど奥歯を噛み締め、恒興は天を仰いだ。その背後で側近が蒼ざめた声で進言する。
「殿、もはや勝機はございませぬ! 秀次様も退かれ、森隊は全滅寸前……今ここで退けば、榊原隊の側面を突けましょう。長可様の仇討ちは、軍を立て直してからでも――」
それは正しい判断だった。だが。
「退く者は斬る!」
恒興の顔は修羅そのものだった。
「長可を置き去りにして帰れん! この胸の怒りは、ここで燃やし尽くす! わしが家康の首を獲るのだ!」
理屈は死んだ。残ったのは、老いた猛将の意地と、煮えたぎる復讐心のみ。退路は既に塞がれ、戦意のみが唯一の突破口となった。
恒興は残存兵力をかき集め、陣形も戦術もかなぐり捨てた「錐行の陣」――一点突破の死兵隊を編成した。
「狙うは家康の本陣ただ一つ! 道を開けいッ! 邪魔する者は皆殺しじゃ!」
その狂気染みた突撃は、徳川前衛を圧倒した。死を恐れぬ兵の奔流は、整った槍衾をも粉砕する。吹き飛ぶ兵、悲鳴、破壊的な勢い。
「止めろ! ここを抜かせるな!」
怒号も虚しく、防衛線はじりじりと押し下げられていた。恒興の太刀がなお鋭く輝き、老躯とは思えぬ動きで前へ前へと道を切り開く。
――その様子を、丘上の本陣で家康は静かに眺めていた。
扇で口元を隠しつつ、戦場全体を俯瞰する思考が瞬時に巡る。隣の榊原康政が焦燥を滲ませて進言した。
「殿! 勢いが止まりませぬ! 長可殿と同じく、射撃を!」
合理的な策。だが、家康は首を横に振った。
「……ならぬ」
(ここで恒興までも銃で討てば、徳川は卑怯者と刻まれる可能性がある。戦には勝ってもそれは良くない。……それにな)
家康の脳裏に、信長の乳兄弟として戦場を駆け続けた男の生き様が過る。時代は変わる。だが、その意地を無下にしてはならぬ。
「弾は尽きた」
静かなる虚言。
「これ以上の射撃は味方にも当たる。……行かせよ。あの男には、花道が必要だ」
慈悲ではない。死に場所を与え、同時に確実に討つための罠。
「陣を開け! 池田殿を本陣へ招け!」
徳川軍は意図的に包囲を緩め、恒興を本陣直前の広場――四方を槍隊と弓隊に囲んだ処刑場へ導いた。
恒興は突っ込む。
「家康ぅぅぅッ! そこにおるかァ!」
鎧は砕け、血に塗れ、声は枯れていた。それでも前進を止めず、迫る兵を薙ぎ払う。先ほどまで前線を翻弄していた新太の存在も、その突撃の標的となった一つの「刃」として、改めて浮かび上がる。
(あんたの時代は終わる。だが――見事だ)
数多の槍を受けて落馬しながら、恒興はなお立ち上がる。戦場の空気すら震える鬼気。
そして――本陣の前、足が止まった。
そこに立っていたのは、黒き具足の武将、新太。
霞む視界の中、恒興は唇を釣り上げる。
「……貴様か。我が陣を荒らした、忌々しき鼠め」
新太は答えず、ただ槍を構えた。
言葉は不要。
ここにあるのは、去りゆく時代の猛将と、次代を切り拓く刃の――最後の対話であった。




