第711節『光と影の槍』
第711節『光と影の槍』
死の刃が、直政の首めがけ振り下ろされた。
その一撃は、時間すら凍りつかせるほど遅く感じられる。だがその軌跡は、確実な死だけを告げていた。直政の瞳に映るのは、血に塗れた鬼武蔵の狂笑と、白く光る鋼の切っ先のみ。
(……終わるのか)
無念の思考が閃くよりも早く――衝撃が走った。
ガギィィンッッ!
肉を裂く湿った音ではない。金属と金属が火花を散らす、硬質の悲鳴。長可の大槍が軌道を逸れ、虚空を薙ぐ。直政が目を見開くと、眼前に一つの背中が立っていた。
黒き具足。泥と返り血で本来の色すら判別できぬその影――新太であった。
彼は愛槍の石突で一撃を叩きつけ、森長可の渾身の斬撃を紙一重で弾いていた。乱れた呼吸、全身から立ち昇る蒸気。どれほどの速度でここまで駆けたか、その身が雄弁に語っていた。
「……遅いぞ、指南役!」
直政は安堵に震えながら悪態を吐く。
新太は振り向かず、長可を睨んだまま、薄く笑った。
「主役は遅れてくるものだ。……それに、お前が派手に暴れるから、道を作るのに骨が折れた」
その軽口には、死地を共に蹴破ってきた者だけが交わせる熱があった。二人は自然に背中を合わせる。朱と黒。戦場の中で、対照的な色彩が鋭く交差する。
長可は槍を弾かれた腕を打ち振り、痺れを振り払う。
「ほう……ただ者ではないな。名を名乗れ」
「名乗るほどの者ではない。ただ――井伊の影だ」
その言葉に、長可は狂気じみた笑みを深めた。
「影か。面白い! ならば光ごと――喰らい尽くしてくれるわ!」
鬼武蔵の殺気が戦場の空気を歪ませる。その圧倒的な存在感に、多くの兵が本能的に一歩退いた。
だが新太は、背中の直政にだけ届く微かな声で囁く。
「直政。――作戦通りだ」
耳朶を打ったのは、井伊谷で泥まみれになり訓練を受けたあの声。源次が授け、二人で磨き上げた戦法の記憶。
「お前は光。派手に動き、吠え、敵の目を全て惹きつけろ。――その隙に、俺が関節を突く」
それは「二鬼の戦法」。個の武勇には、連携で挑む。一見無謀な突撃に、実は緻密な計算を忍ばせた攻め。
直政は血の混じった唾を吐き捨て、口角を吊り上げた。
「承知! ――俺の背中、預けたぞ!」
吼える。
「鬼武蔵! 貴様の首、この赤鬼が貰い受ける!」
直政は馬腹を蹴り、真正面から突撃。槍を大上段に掲げ、わざと隙だらけの構えで敵を誘う。鮮烈な赤と気迫に、長可の意識が引き寄せられた。
「小僧がァ! 死に急ぐか――!」
長可が迎撃体勢を取った、その刹那。
直政の作る影から――新太が音もなく滑り出る。低く、速く。闇を裂く風のように。
槍が伸びる。ただし狙いは首でも胴でもない。
その足元を支える要――愛馬の前脚。
ズシュッ!
地を這う蛇の如く伸びた槍が、正確無比に関節を突いた。
ヒヒィィンッ!!
馬が悲鳴を上げ前脚を折る。直後、重力に引きずられ森長可が泥に叩きつけられた。
ドッ!
「なっ……卑怯な!」
泥まみれとなりながら、長可は素早く起き上がる。その顔は屈辱と怒りで歪み、もはや人のものではなかった。
「貴様ら……武士の誇りは――ないのか!」
咆哮しながら徒歩で槍を構える。馬を失ってなお、殺気は増すばかり。まさに手負いの獣。
「面白い……二人がかりか! ――上等だ! まとめて挽肉にしてくれる!」
直政と新太は馬から下りる。足を泥に沈め、並び立つ。
朱と黒。若き二鬼。
対するは、戦場を喰らい尽くす古の修羅。
その瞬間、戦場の喧騒が遠のいた。
異質な殺気だけが満ち、決闘の場が張り詰めるように浮かび上がった。




