第710節『激突』
第710節『激突』
叩きつけられた衝撃は、槍同士が触れ合ったというより、巨大な鉄槌で全身を殴りつけられたかのようだった。
井伊直政の腕が痺れ、愛馬が苦鳴を上げてたたらを踏む。視界の正面、返り血を浴びて朱に染まった鬼武蔵・森長可が、十文字槍を振り上げ、狂笑した。
「軽い、軽いぞ赤備え! 武田の残滓を纏っただけで威勢を張るとは、笑わせる!」
その一撃は、ただの力任せではない。計算された殺意が、槍の軌跡すべてに宿っていた。直政が繰り出す突きはことごとく弾かれ、かすめ、あるいはわずかに外される。反撃は一切通らず、守りに徹してなお押し潰される。
周囲では、赤備えの精鋭たちが必死に食い下がるも、長可が率いる狂気の突進に押し流され、主君を援護できずに泥沼の乱戦に沈んでいた。直政は敵陣の中心で、完全に孤立していた。
「どうした! 威勢がいいのは最初だけか!」
長可の槍が脇腹を削り取る。鮮血が飛び散り、熱い痛みが肩から背へと走る。呼吸が荒れ、握力が抜けようとする。
(……ここまで、なのか)
恐怖が足元から這い上がる。逃げろ、背を向けろと本能が叫ぶ。だが――。
丘上の本陣から、その姿は手に取るように見えていた。
本多忠勝が拳を握りしめ、奥歯を軋ませる。
「――直政が、保たぬ! 殿、このままでは直政が死ぬぞ!」
家康もまた、扇を持つ手を震わせていた。あの若者は、直虎様から託された井伊家次代の希望。そして自らの手で育てる未来だ。
「……新太」
低く絞り出された声。家康は戦場から目を離さず心から親友に祈った。
「直政が敵の目を引きつけ燃え上がる今こそ――新太が動く、唯一の好機よ」
家康は、自らが結びつけた者たち――直政と新太の絆を信じていた。
戦場。直政はすでに限界を超えていた。辛くも槍を合わせた瞬間、兜の吹き返しが砕け飛び、視界が赤く滲む。馬が悲鳴を上げ、膝が折れかける。
(逃げたい――)
その衝動を噛み殺し、血を吐き捨てた。
(ここで退けば、一生臆病者として井伊の名を汚す。何より――家康様に託された期待を裏切る!)
直政は馬首を立て直し、殺気をまとって迫る長可を睨み据えた。
「退かぬ! 俺が退けば――徳川が崩れる!」
一瞬、長可の目が見開かれた。
「ほう……良き眼よ!」
愉悦の笑みに変わり、長可は大上段に構えた。
「その意地に免じて、苦しまずに送ってやる!」
死の槍が振り下ろされる。直政にはもはや防げぬ。だが――彼は目を閉じなかった。
刹那、戦場が息を呑む。風が止まり、音が消える。
強烈な光が生み出した、深い影から――。
黒い殺気が、音もなく解き放たれようとしていた。




