表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
709/1000

第709節『赤き閃光』

第709節『赤き閃光』

 羽柴秀次本隊の壊滅によって訪れた束の間の静寂は、東の空から押し寄せたどす黒い殺気によって、硝子細工のようにもろく砕け散った。

 先鋒として前進していた池田恒興と森長可は、背後で立ち上る黒煙、雪崩のごとき敗残兵の奔流を見て、即座に事態を悟る。

「おのれ家康……小牧に籠ると見せて、我らの鼻先を出し抜きおったか!」

 恒興が怒号すると同時、猛者たちの瞳は恐怖ではなく、むしろ烈火のような怒りで燃え始めた。

「退くな! 退く者は味方でも斬れ! 戻るぞ! 家康の首をねじ切れ!」

 娘婿、「鬼武蔵」森長可もまた、愛槍を振り回し、狂気めいて馬首を返す。敗走する味方の兵をも容赦なく踏み潰し、逆流する奔流のように谷底へ殺到した。

 その気迫は秀次軍とは比較にならない。死を恐れぬ獣が群れとなって突進する。その速度は、計算づくの弾幕を怒涛の勢いだけで食い破り、徳川軍前衛へ肉薄した。

 ――ガギィン!

 瞬間、金属が悲鳴を上げた。鉄砲隊の護衛につく槍隊が圧力に耐え切れず後退する。

「押し込めぇ! 小細工など、この鬼武蔵が断ち割ってくれるわ!」

 長可の槍が一閃するたび、徳川兵が宙を舞う。その凶暴な「個」の力は、源次が築いた「集団戦術」を物理的に粉砕しようとしていた。

 ――丘上、本陣。

 急変する戦況を目にし、家康は舌打ちを堪えた。

(……やはり理屈だけでは済まないか。窮鼠どころか、手負いの虎じゃないか。歴史を動かすほどの者は、往々にして数字では測れないものなんだな)

 システム化された射撃戦は、乱戦になれば機能を喪失する。ここから先は、血と泥が支配する原始戦だ。

 しかし、家康は、扇を握りしめながら穏やかに目を細めていた。むしろ、その瞬間を待っていたかのように。

「策の時間は、終わりじゃ、ここからは、力の時間となる」

 視線を陣の最前へ。

 そこには、まだ咆哮を抑えていた赤い塊――戦場の炎が如く。

 家康の声が飛んだ。

「直政! 出る幕ぞ!」

 その一言で、井伊直政が弾かれたように顔を上げる。若き当主の瞳には恐怖の欠片もない。新太と共に幾度もの訓練を潜り抜け、内に押し込めてきた熱が、いま臨界点に達する。

「――井伊の赤備え、出るッ!」

 直政が叫び、馬腹を蹴った。

 次の瞬間、戦場に赤き閃光が奔る。

 数百の騎馬が一団となって斜面を駆け下りた。武田の遺産を受け継ぎ、井伊の血で染め上げた「赤」。それは炎の色にして、血の色。

「蹴散らせぇぇぇッ!」

 直政は、躊躇なく乱戦の中心へ突撃した。

 ――激突。

 その衝撃音は鉄砲の轟きにも匹敵し、戦場の空気を打ち震わせる。直政の槍が疾風のごとく池田軍の先陣を薙ぎ払い、敵の勢いが一瞬止まる。赤備えがそこへ雪崩れ込み、陣を深く切り裂いていく。

 だがその奥から――

 人ならざる殺気。

 一騎の男が、獲物を見つけた獅子のごとく直政を目指して疾駆してくる。

 鬼武蔵、森長可。

「面白いッ! 赤い小僧、貴様……俺の相手か!」

 その顔は歓喜に歪んでいた。

 直政も、吼える。

「井伊直政――推して参る!」

 赤と白、二つの「鬼」が、泥と血に染まる戦場の中心で激しく交錯した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ