第709節『赤き閃光』
第709節『赤き閃光』
羽柴秀次本隊の壊滅によって訪れた束の間の静寂は、東の空から押し寄せたどす黒い殺気によって、硝子細工のようにもろく砕け散った。
先鋒として前進していた池田恒興と森長可は、背後で立ち上る黒煙、雪崩のごとき敗残兵の奔流を見て、即座に事態を悟る。
「おのれ家康……小牧に籠ると見せて、我らの鼻先を出し抜きおったか!」
恒興が怒号すると同時、猛者たちの瞳は恐怖ではなく、むしろ烈火のような怒りで燃え始めた。
「退くな! 退く者は味方でも斬れ! 戻るぞ! 家康の首をねじ切れ!」
娘婿、「鬼武蔵」森長可もまた、愛槍を振り回し、狂気めいて馬首を返す。敗走する味方の兵をも容赦なく踏み潰し、逆流する奔流のように谷底へ殺到した。
その気迫は秀次軍とは比較にならない。死を恐れぬ獣が群れとなって突進する。その速度は、計算づくの弾幕を怒涛の勢いだけで食い破り、徳川軍前衛へ肉薄した。
――ガギィン!
瞬間、金属が悲鳴を上げた。鉄砲隊の護衛につく槍隊が圧力に耐え切れず後退する。
「押し込めぇ! 小細工など、この鬼武蔵が断ち割ってくれるわ!」
長可の槍が一閃するたび、徳川兵が宙を舞う。その凶暴な「個」の力は、源次が築いた「集団戦術」を物理的に粉砕しようとしていた。
――丘上、本陣。
急変する戦況を目にし、家康は舌打ちを堪えた。
(……やはり理屈だけでは済まないか。窮鼠どころか、手負いの虎じゃないか。歴史を動かすほどの者は、往々にして数字では測れないものなんだな)
システム化された射撃戦は、乱戦になれば機能を喪失する。ここから先は、血と泥が支配する原始戦だ。
しかし、家康は、扇を握りしめながら穏やかに目を細めていた。むしろ、その瞬間を待っていたかのように。
「策の時間は、終わりじゃ、ここからは、力の時間となる」
視線を陣の最前へ。
そこには、まだ咆哮を抑えていた赤い塊――戦場の炎が如く。
家康の声が飛んだ。
「直政! 出る幕ぞ!」
その一言で、井伊直政が弾かれたように顔を上げる。若き当主の瞳には恐怖の欠片もない。新太と共に幾度もの訓練を潜り抜け、内に押し込めてきた熱が、いま臨界点に達する。
「――井伊の赤備え、出るッ!」
直政が叫び、馬腹を蹴った。
次の瞬間、戦場に赤き閃光が奔る。
数百の騎馬が一団となって斜面を駆け下りた。武田の遺産を受け継ぎ、井伊の血で染め上げた「赤」。それは炎の色にして、血の色。
「蹴散らせぇぇぇッ!」
直政は、躊躇なく乱戦の中心へ突撃した。
――激突。
その衝撃音は鉄砲の轟きにも匹敵し、戦場の空気を打ち震わせる。直政の槍が疾風のごとく池田軍の先陣を薙ぎ払い、敵の勢いが一瞬止まる。赤備えがそこへ雪崩れ込み、陣を深く切り裂いていく。
だがその奥から――
人ならざる殺気。
一騎の男が、獲物を見つけた獅子のごとく直政を目指して疾駆してくる。
鬼武蔵、森長可。
「面白いッ! 赤い小僧、貴様……俺の相手か!」
その顔は歓喜に歪んでいた。
直政も、吼える。
「井伊直政――推して参る!」
赤と白、二つの「鬼」が、泥と血に染まる戦場の中心で激しく交錯した。




