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第708節『白金の雨』

第708節『白金の雨』

 金扇が振り下ろされた刹那、白幡山の静寂は天地を裂くような轟音によって破砕された。谷の両翼、鬱蒼とした茂みに潜んでいた徳川の鉄砲隊三千が、一斉に火蓋を切ったのだ。

 右から、左から。

 交差する火線は避けようのない死の十字架となり、谷底を封鎖する。

 つい先ほどまで談笑し、握り飯を頬張っていた羽柴秀次軍の中列が、何が起きたのかを理解する間もなく、見えざる鎌に薙ぎ払われるようにして血飛沫と化した。乾いた破裂音と遅れて届く悲鳴。硝煙が白く谷を覆い、平和な朝餉は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わっていく。

「て、敵襲ッ! 伏兵だ!」

「どこからだ! 家康は小牧山にいるはずでは――!」

 指揮系統は瞬時に崩れ、兵らは右往左往し、互いにぶつかり倒れ込んでゆく。だがその中にも、戦場を積み重ねた者はいた。秀次の親衛隊長が血走った目で叫ぶ。

「怯むな! 撃ち尽くしたはずだ! 今こそ駆け上がって突き崩せ!」

 常識であれば、発砲直後の鉄砲隊は再装填に時間を要し、最も脆弱となる瞬間。生き残った兵たちはその一縷の希望に縋り、斜面を駆け上がろうとする。

 ――だが、その常識こそ、源次が仕掛けた最大の罠であった。

 丘上から戦況を見下ろす家康の瞳に、冷ややかな憐憫が浮かぶ。

(……気の毒だが、お前たちの知る『鉄砲』と、俺たちが持っている『武器』は違う)

 土塁の影で、徳川の銃手たちは一斉に帯から「早合」――火薬と弾丸を一包みにした紙薬莢を引き抜く。口で端を食いちぎり、火皿と筒先に流し込み、朔杖で一突き。

 無駄のないその動作は、従来の手順を極限まで短縮していた。敵が斜面の半ばに至るより先に、第二の火蓋が切られる。

 ――ドォォォォンッ!

「な、なぜだ!? なぜ撃ち止まない!」

「早すぎる……化け物だ!」

 その叫びも第三射、第四射の轟音に呑まれた。落下する鉛はもはや射撃ではない。空気を裂き雨のように降り注ぐ――

 ――白金の雨。

 源次は白煙の向こうで崩れ落ちる人の波を見つめ、軍配を握る手に力を込めた。

(これが、知識を用いた代償か)

 効率を戦へ持ち込んだ結果が、この殺戮の合理化。胸の奥で何かが軋む。だが顔には出さない。ここで目を逸らすことこそ、死者への冒涜だ。

「手加減は無用。恐怖を刻み込め」

 谷底では、金色の輿が無数の弾痕を受け砕け散り、泥に沈んだ。転げ落ちた秀次は冠を失い、這いずりながら叫ぶ。

「馬だ! 馬を引け! わしを逃がせ!」

 秀吉の威光を笠に総大将となった若者の虚飾は、一瞬で剥がれ落ちた。鼓舞することもできず、真っ先に逃げ惑うその姿は、軍の崩壊を決定づける。

 兵たちは主を捨て、雪崩のように敗走を始めた。勝負は決した。

「殿! 敵は総崩れです! 追撃すれば秀次を討ち取れますぞ!」

 榊原康政が興奮を抑えきれず進言する。

 だが家康は首を横に振る。その眼は逃げる秀次ではなく、さらに遠く、土煙の向こうを見据えていた。

「雑魚は捨て置け。あのような将を討っても、天下の趨勢は変わらぬ」

 家康は扇をゆるりと閉じた。パチン、と鋭い音が、轟音の余韻に割り込む。

「本命は、この騒ぎを聞きつけて戻ってくる猛獣たちだ」

 一方的な狩りの時間は終わった。

 風向きが変わる。

 東の空から押し寄せる、どす黒い殺気。血の匂いに誘われて、牙を剥く者たちが来る。

 ここからは策謀ではない。

 ――修羅同士の激突となる。

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