第707節『驕れる行進』
第707節『驕れる行進』
白幡山の頂。朝霧の薄れゆく視界の先に、信じがたい光景が広がっていた。
眼下の谷道を、長大な軍列が進んでいる。羽柴秀次率いる中入り軍の本隊である。
――だが、その姿は、これから決戦に向かう軍勢とは到底思えなかった。
兵たちは兜を脱いで鞍に掛け、隊列を崩して雑談に興じている。槍の穂先は下を向き、足取りもだらけきっている。行列の中央、金銀で飾られた豪奢な輿の上では、総大将・羽柴秀次が、美童に給仕させながら悠然と朝餉の握り飯を頬張っていた。
岩崎城での小競り合いに勝利したことで、彼らは完全に勝利を確信し、徳川軍など恐るるに足らずと侮りきっているのだ。
丘の茂みに身を潜め、その様子を窺っていた榊原康政は、思わず呻いた。
「……あれが、天下を狙う羽柴の軍か。まるで花見の行列ではないか」
隣で伏せる本多忠勝が、呆れを通り越し、苦々しく顔をゆがめる。
「死にに来たようなものだ。……殿、今すぐ突撃すれば、一揉みで潰せますぞ」
忠勝の手は、逸るように槍の柄を強く握りしめていた。
だが――彼らの主君・家康は、微動だにしない。
その瞳の奥で、冷徹な計算を走らせていた。
(……ここまでは史実通り。相手の油断は極限に達している。だが兵数は依然として向こうが上。正攻法で撃ち合えば、弾込めの隙に押し返される可能性がある)
しかし、その口元には、かすかな笑みが浮かび始めていた。
――勝算はある。自ら開発し、この日のために量産し、徹底的に訓練させた「新兵器」が。
「康政、忠勝。……準備は万全か」
小声ながら響く問いに、二人の猛将は笑って頷いた。
「抜かりございませぬ。鉄砲隊の腰には、たっぷりと『早合』がぶら下がっております」
そう、家康が導入した早合――火薬と弾丸を一発分ずつ紙包みにしたもの。
従来なら、火薬入れから適量を注ぎ、弾を込め、朔杖で突き固める。だが早合なら、その全工程を大幅に短縮できる。次弾発射までの時間は、従来の半分以下――いや、訓練を積んだ者なら三分の一以下にまで詰められる。
さらに、伏兵の中には、銃身を極端に切り詰めた「短筒」を携えた機動射撃隊も紛れ込んでいる。
(敵は鉄砲の弾込めの間を突いて反撃しようとするだろう。だが――その隙は、もう存在しない。こちらが浴びせるのは、絶え間なく降り注ぐ弾丸の雨だ)
逸る忠勝を扇で制し、家康は冷静に告げた。
「待て。まだ早い」
その声は、地下水のように冷たく静かだった。
「先頭を行く池田恒興と森長可の隊は、歴戦の猛者だ。奴らが完全に通り過ぎ、油断しきった秀次の本隊だけが、この谷底に孤立する瞬間を待つのだ」
それは――獲物の尻尾ではなく、胴体を確実に断ち切るための極限の寸止め。
谷の左右には、木々の陰に隠れた数千の鉄砲隊が、早合を握りしめ、銃口を並べて息を殺している。
だが敵は、自分たちがすでに処刑台の上に立たされていることさえ気づいていない。
時間が、ねっとりと引き伸ばされるように過ぎていく。
先鋒の池田隊の旗が視界から消え、秀次の輿が――源次が定めた“死地”の中心へと差し掛かった。
兵らの笑い声が、風に乗って丘の上まで届く。
「三河に入ったら、女を略奪してやるぞ」
「家康の首で酒盛りだ!」
その下卑た台詞の一つひとつが、彼ら自身の命を削り取っていく。
(……ああ、聞こえているよ。お前たちのその慢心が、弔鐘のように)
家康は、ゆっくりと立ち上がった。
その手には、金色の扇が握られている。
その背中から放たれるのは、かつての温厚で豪放な家康とは異なる、底知れぬ凄み。まるで――歴史そのものを意図的に動かす者の威圧感。
眼下の秀次を見下ろし、家康は心中で静かに告げた。
(悪いな、秀次。こちらの鉄砲は、お前たちが知っている代物とはわけが違う。……そろそろ退場願おうか)
――風が、止まった。
鳥の声すら消えた静寂の中、家康は扇を高々と掲げる。
朝日がそれに反射して、谷底へ光の刃を投げかけた。
「……食事の邪魔をして悪いが」
低く、凍るような声。
「ここが、貴様らの墓場だ」
扇が――静かに、しかし確実に振り下ろされた。
その刹那。
長久手の谷は、未曾有の轟音に呑み込まれる。
絶え間ない銃声が、驕れる行進を殺戮の修羅場へと変貌させることを知らしめていた。




