第706節『死地の設計図』
第706節『死地の設計図』
小幡城に入った徳川本隊は、息つく間もなく次の行動に移っていた。
家康は、休息もそこそこに城の裏手にある小高い丘へと足を運んだ。手には地図を持たない。紙の上に描かれた線ではなく、草の湿り気、風の通り道、視界の開け具合といった「生の地形」を、その目で確かめる必要があったからだ。
眼下に広がるのは、色金山と御旗山に挟まれた、狭く細長い盆地。朝霧が薄く漂うその谷間を見下ろしながら、家康は、知識を総動員して計算を弾き出していた。
(……ここだ。ここしかないぞ)
彼は、美しい朝の風景を、効率的な処刑場として脳内で書き換えていく。敵は長蛇の列をなして、この細い道を通らざるを得ない。前を行く池田恒興・森長可の先鋒隊と、後に続く羽柴秀次の本隊。その隊列が伸びきり、連携が途絶える瞬間――その時、この谷は出口のない棺桶と化す。
それは、孫子の兵法に言う「死地」。退路を断たれれば必死に戦うしかない場所だが、逆に包囲されれば全滅する場所でもある。
「――康政」
家康は、背後に控えていた榊原康政を呼んだ。
「はっ」
「鉄砲隊の配置を変える。正面に並べるのではない。あそこの茂みと、向こうの岩陰――谷を挟む左右の高台に分けて伏せさせよ」
康政は怪訝そうに眉をひそめた。
「左右に、でございますか? それでは火力が分散いたします。敵を正面から食い止めるには……」
「食い止めるのではない」
家康は静かに遮った。
「殺すのだ。正面から撃てば、前の敵が盾となり、後ろの敵に届かぬ。だが、左右から釣瓶撃ちにすれば、敵は逃げ場を失い、互いにぶつかり合って自滅する」
彼は両手を交差させ、死の線を描いて見せた。康政は息を呑む。それは武士の戦い方というより、狩猟の罠に近い発想だった。だが、その残酷なまでの合理性に、知将としての本能が震える。
「……承知いたしました。敵を、袋の鼠にするのですね」
次に家康は、さらに危険な一手を打った。
彼は、伏兵を隠す死角ではなく、あえて敵から丸見えになる平地の一点を指し示した。
「そして、ここに儂の『金扇』の馬印を立てよ。旗本衆もここへ集めろ」
「……なっ!?」
康政だけでなく、傍にいた本多忠勝も色めき立った。
「殿! それでは敵に本陣の位置を教えるようなもの! あまりに危険です!」
「だからこそ、だ」
家康の瞳が、暗い光を帯びた。
「敵の先鋒、池田恒興は織田家きっての歴戦の猛将。だが、それゆえに功名心にはやり、『好機』を見れば食いつかずにはいられぬ性格。我らの本隊がここにいると見せかければ、奴は必ず釣られる。そして、奴が突出することで、後続の秀次隊との間に決定的な『断絶』が生まれるのだ」
それは、自らを餌とする釣り。
忠勝が「なりませぬ!」と抗議の声を上げかけたが、家康は片手を挙げて制した。
「よい。……池田ほどの古強者を欺くには、本物の餌が要る」
記憶が、歴史の彼方から池田恒興という男の「業」を告げている。――彼は引かない。目の前に家康の首があれば、必ず飛び込んでくる。
(……悪いな、恒興。お前のその勇猛さが死因だ)
配置が完了した頃、朝日は完全に昇り、霧が少しずつ晴れ始めていた。
徳川軍一万は、森の木々や起伏を巧みに利用して姿を消し、まるで風景そのものとなっていた。鳥のさえずりだけが響く、穏やかな朝。
だが、その静寂の皮一枚下には、数千の銃口と槍の穂先が、獲物の喉元を狙って息を殺している。
家康は、丘の上で扇を閉じた。
乾いた音が、静寂に沈む舞台の唯一の合図のように響いた。
(状況は組み上がった。すべて完璧だ)
あとは、敵方が何も知らずに死の舞台へと足を踏み入れた瞬間――幕を下ろすだけ。
家康は、遠く東の空を見つめていた。
(……さあ、来い。ここが、お前たちの終着点だ)




