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第705節『静寂の強行軍』

第705節『静寂の強行軍』

 深夜。小牧山城の裏門から、巨大な影が押し寄せるように滑り出た。

 総勢一万――徳川本隊である。だが、その行軍には軍勢特有の鬨や熱気は一切なかった。松明は一本も灯されず、兵は声を殺し、馬には枚銜まいばみが噛ませられ、いななきすら封じられている。鎧の金具は布で巻かれ、足音すら土に吸われていた。

 それは軍団というより、夜闇を這う巨大な影法師だった。

 家康は懐から取り出した砂時計を凝視しながら小声で指示を飛ばし続けていた。

「――歩調を少し落とせ。走るな。早歩きを維持」

 伝令が低声で各隊に伝える。焦りを抑えきれない若い将が近づき、耳元で囁いた。

「殿、このままでは夜明けが……駆け足のほうが……」

「却下だ」

 刃のような即答だった。

「無理に走れば隊列が崩れ、疲れで脱落者が出る。到着時に兵が使い物にならねば意味がない。……これは根性論ではない。計算だ」

 家康が用いたのは、合理的運動管理。五十分進み十分休む。喉が渇く前に少量給水。荷駄は均一に分散。

 「気合で突撃せよ」とは真逆の、機械的とも呼べる精緻な行軍理論によって進軍した。

 最初は戸惑っていた兵たちも、次第に理解する。息が乱れない。足がもつれない。目の前の闇だけが、等速で後ろへ流れていく。

 軍団は、一万の塊でありながら、まるで見えないベルトコンベアの上を滑っているかのように進んだ。

(順調だ。秀吉軍は岩崎勝利の余韻に酔い、夜営で気が緩んでいる頃。今この速度差こそ、勝敗を決する)

 家康は暗闇の風景と脳裏の地図を照合しながら、勝利への道筋を描いていた。

 ――その時だった。

 街道を外れ森の獣道へ入った瞬間、前方の闇が揺れた。風とは違う、衣擦れの音。

(……斥候か)

 家康の背が冷える。ここで見つかれば終わりだ。家康も刀に手をかけかけ――。

 鈍く湿った音が三度、闇の奥で響いた。

 ドサッ、ドサッ、ドサッ。

 悲鳴は一つもない。直後、草むらを裂いて一人の黒装束が現れ、家康の馬前に膝をついた。

 服部半蔵保長である。手には血で染まった手拭いが握られていた。

「……道、開けましてございます」

 その一言に映る凄絶さを、源次は無言で受け止めた。伊賀者たちが街道沿いに潜む秀吉軍の物見や耳目を、一人残らず「声を上げさせずに」葬っているのだ。

 夜風が、鉄の匂いを運ぶ。

(……すまない。俺たちが静かに進めるのは、お前たちが闇で血を流してくれているからだ)

 源次は胸の裡で詫び、顔を上げた。

「進軍再開。夜明けまで、あと二刻――間に合わせるぞ」

 やがて東の空が群青色に変わり始めた頃、先頭部隊は長久手北西・小幡城の城門に到達した。

 留守兵たちは陣霧の中から湧くように現れた大軍を見て、腰を抜かさんばかりに叫ぶ。

「い、いつの間に……!」

 音もなく、気配すら残さず。

 徳川主力は敵の鼻先へ、まるで瞬間移動するかのように到達していた。

 家康は城壁に登り、朝靄に沈む平野を見下ろす。その向こうには、何も知らず進軍する秀吉別働隊の影。

 忠次が横に並ぶ。

「完璧です、殿。敵は未だ、我らが小牧山にいると信じております」

 家康は頷き、扇で一角を指す。

「あれが死地だ。色金山と御旗山――そこへ敵を誘い込むぞ」

 静寂の強行軍は終わった。

 次に始まるのは、沈黙を活かした、一方的な狩りである。

 家康の瞳に、冷徹な殺意が凍てついていた。

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