第704節『赤き先鋒』
第704節『赤き先鋒』
岩崎城の方角から立つ黒煙が夕闇に溶け、夜気が忍び寄る頃。小牧山の徳川本陣は、張り詰めた静寂に支配されていた。
天幕の中央で、家康は床几に腰を据えたまま腕を組み、深く目を閉じている。周囲には本多忠勝、榊原康政、井伊直政ら、徳川を支える柱石たちが控え、その誰もが主君の口元に神経を尖らせていた。
岩崎城を見捨てた――その非情な決断の奥に、いかなる勝機があるのか。答えを待つ空気が、息苦しいほどに濃い。
やがて、家康はゆっくりと目を開いた。
そこにはもはや苦渋も逡巡もない。罠に獲物を追い込み、引き金に指を添える狩人の、研ぎ澄まされた光だけが宿っていた。
「……時が来た」
低く、響き渡る声。
「敵は岩崎城を落とし勝鬨を上げた。足は止まり、警戒は緩んでいる。今こそ、我らが動く刻だ」
家康は立ち上がり、地図上の「長久手」を扇で強く叩いた。
「この夜のうちに全軍を移動させる。夜明けと同時に敵の横を断ち割り、完膚なきまでに打ち砕く」
沈黙が、一瞬にして武者震いに変わった。誰もが、遂に正面決戦を迎えることを悟る。
「――先鋒は」
声がさらに低く鋭くなる。忠勝か、康政か。歴戦の将たちが無意識に背を伸ばす。
だが家康の視線は、そのどちらにも向けられず、列の端に控えていた若武者に注がれた。
「直政。前へ」
「はっ!」
井伊直政が一歩踏み出す。真紅の具足が揺れ、炎のような闘志がその瞳に燃えた。
家康はその赤をまっすぐに見据える。
「この戦、先陣はお前の赤備えに任せる」
広間が揺れた。譜代の古参を差し置いての抜擢。だが、家康の声はさらに重なる。
「敵は池田恒興に森長可。天下に名高き猛将ぞろいだ。生半可な槍では通じぬ。奴らの度肝を抜くには――お前の、その赤が必要だ」
歴史研究家の記憶が胸奥で囁く。
(直政。この戦でお前は、井伊の赤鬼として天下に轟く。舞台は整った。思い切り暴れろ)
「直政。その赤は飾りではない。味方を鼓舞し、敵を打ち砕く凶具だ。派手に行け」
直政は震える声で応えた。
「恐悦至極……! この直政、命を捨ててでも敵将の首、必ずや御前に!」
額を床に叩きつけるように平伏したその背には、すでに鬼が宿っていた。
家康はその影に立つもう一人に目を移す。
「新太」
「……はっ」
それだけで足りた。
(頼む、新太。直政は強烈な光だ。だが光は狙われる。お前が死角を守れ)
その無言の合図に、新太はニヤリと笑い、直政の肩を叩いた。
「聞いたか。一番槍だってさ。置いていくなよ」
「ふん……遅れるなよ、指南役」
光と影、二人の鬼が並び立つ。その姿に、忠勝も康政も深く頷いた。
「よし」
家康は扇を高く掲げた。
「全軍、出陣準備! 灯りを消せ、音を殺せ! 夜明けと共に、歴史を書き換えるぞ!」
「応ッ!」
闇の中で数千の兵が無音で進み始める。
月明かりが、直政の赤備えを鈍く照らした。
それは、徳川家康が放つ必殺の矢であると同時に――岩崎で散った命への、静かな弔いであった。




