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第703節『岩崎城の悲劇』

第703節『岩崎城の悲劇』

 尾張の東、小高い丘に建つ岩崎城。その櫓の上で、若き城主・丹羽氏重は、迫り来る土煙の壁を見据えていた。

 羽柴秀吉が放った中入り軍、総勢二万。対する城兵は、わずか三百。

 本来であれば、織田信雄の家臣として敵をやり過ごし、城を守ることが定石だった。だが氏重の瞳には、年齢に似つかわしくない清冽な覚悟が宿っていた。

 彼は知っていた。主君・信雄が疑心に溺れ、家老を手にかけてまで自滅への道を歩み始めていることを。そして、乱世において真に頼れる器量を持つ者が、同盟相手たる徳川家康であることも。

「……この軍勢を素通りさせれば、三河は炎に包まれる」

 氏重は手すりを握り、息を整えた。

「信雄様には止められぬ。だが、家康殿ならば――あの御方ならば、我らの死に場所に価値を与えてくださるはずだ」

 形式上の主従よりも、真の為政者に未来を託す。乱世の若者が選んだ、あまりに純粋な賭けであった。

 彼は振り返り、死を覚悟した三百の兵に声を張り上げた。

「皆の者! これより我らは、歴史の捨て石となる! だが、ただ潰える石ではない。――巨大な車輪を止める楔となるのだ! 家康殿が動く時を、命をもって買い取れ!」

「応ッ!」

 悲壮な鬨が空を震わせた。

 敵の先鋒・池田恒興隊が城の脇を通過しようとした瞬間、岩崎城からの一斉射撃が火を吹いた。

「何事だ!?」

 不意を突かれた池田隊が動揺する。

「小城の分際で! 信雄の家来風情が、天下の軍に弓引くか!」

 功名に逸る恒興は激昂し、軍を止め城攻めを命じた。

「踏み潰せ! 家康への見せしめといたす!」

 二万の軍勢が、蟻のごとく城壁へ押し寄せた。――氏重の狙い通り、大軍の足が止まった。

 ――小牧山、徳川本陣。

 戦闘開始の報は、一陣の風の如く駆け巡る。

「岩崎城、敵二万を引きつけ奮戦中! 玉砕覚悟の足止めかと!」

 本多忠勝が床几を蹴り立って立ち上がった。

「氏重殿が……! 殿、急ぎ救援を! あれは他家の者なれど、その心は我らと共にありまする!」

 榊原康政も拳を握る。「今こそ出れば、敵の背を撃てましょう!」

 だが、上座の家康は目を閉じたまま動かない。

 胸の内では、情が叫ぶ。(助けなければならない。あの健気な若者を見殺しにしてはならない――)

 だが軍師としての理性が囁く。(いや、今動けば本隊が露見し、奇襲は失われる。彼が結局はここで討たれるのが必然。敵が岩崎に足を取られ、隊列が乱れる今こそが最大の機でなんだ)

 丹羽氏重も、助けられることなど望んでいない。求めているのは――自らの死が、勝利に繋がることのみ。

 家康は静かに瞼を開いた。

 その瞳には涙も迷いもなく、ただ天下を見据える統率者の冷徹な意志が宿っていた。

「……ならぬ」

 低く、しかし陣中全てを震わせる声。

「救援は出さぬ。――岩崎城には、死んでもらう」

「殿ッ!」

 忠勝が叫ぶが、家康は視線で制す。

「氏重の覚悟を侮るな。あれは織田の臣でありながら、この家康に未来を託し死地を選んだ。ここで動けば、御身の死は犬死となろう」

 家康は立ち上がり、地図上の岩崎を扇で叩いた。

「彼らが時間を稼ぐ間に、我らは闇に紛れて進む。敵が城を落とし勝利に酔うその刹那――刃を喉元に突き立てるのだ」

 誰一人返す言葉を持たなかった。ただ拳を握り、俯く。

 それは情を捨てたのではない。情を飲み込み、勝利のために鬼となった決断だった。

 ――夕刻。

 岩崎城の方面から、黒煙が天へと伸びた。城は陥落。三百は、誰一人残らず果てた。

 煙を見つめ、家康は静かに心で手を合わせた。

(丹羽氏重よ……その命、無駄にはしない。必ず勝利で報いよう)

 彼はゆっくりと振り返り、武将たちへ告げる。

「――城は落ちたがその代償は払われた。敵は疲弊し、勝利に酔う。隊列は間延びしているはずだ」

 家康の声は、氷のように冷たく、同時に魂を焦がすほど熱かった。

「全軍、出陣準備。松明を捨て、音を殺せ。……死して道を開いた者らのために、これより弔い合戦を始める」

 その瞬間、徳川軍の殺気が、闇の中で静かに、しかし爆発的に膨れ上がった。

 ――たった一人の若武者が捧げた命が、最強の軍団を解き放つための、最後の鍵となった。

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