第712節 『修羅の哄笑』
第712節 『修羅の哄笑』
長久手の戦場は、泥と血と硝煙が混ざり合った、地獄の坩堝と化していた。
前夜から降り続いた雨を含んだ大地は、底なしの沼のように人馬の足を絡め取る。進むたびに泥が跳ね、体力が削られていく。だが、その泥濘にあって、ただ一人だけ、重力という枷から解き放たれたかのように暴れ回る男がいた。
森長可――戦場を喰らう鬼武蔵。
愛馬を失い、地に足をつけたその瞬間でさえ、彼の殺気は衰えるどころかむしろ増幅していた。あたかも大地の深淵から力を吸い上げているかのように、その動きは重鋼を纏った兵とは思えぬほど軽く、速く、荒々しい。
彼の手に握られた十文字槍が風を斬るたび、空気が震え、戦場の時間さえ軋んだように感じられた。それはもはや武術ではない。災害と呼ぶべき暴力だった。
「ぬるい! 二人掛かりでその程度かァ!」
響き渡る哄笑が、土煙と血飛沫を切り裂き、直政の鼓膜を刺した。
直政の朱槍は鋭く閃き、風圧を伴って喉元を突く。だが長可は首をわずかに傾けるだけでそれを躱し、すぐさま返す刃で新太の足元を薙ぐ。
二人の連携は、訓練により研ぎ澄まされたはずの阿吽の呼吸。直政が光となって敵の目を惹きつけ、新太が影として死角を突く――源次の教えから生まれた「二鬼の戦法」。常人であれば初撃で絶命する波状攻撃だ。
だが、目の前の怪物は違った。
死角から襲う槍を皮膚の振動で察知し、理屈ではなく獣の勘で弾き飛ばす。戦術も理性も飲み込んだ「異形の暴力」――その前では、あらゆる技巧が霞むのみ。
直政の額に、冷たい汗が滲む。兜の紐を伝って頬を濡らす。
(……化け物か。時間をかければ、こちらが先に削られる)
背後には未だ多く残る羽柴秀次軍の乱兵、さらに池田恒興本隊も迫っているはず。引き延ばされれば、退路さえ断たれる。
焦りが、踏み込みをわずかに鈍らせた。そのほんの数寸――
「死ねぇッ!!」
泥飛沫が爆ぜ、長可が踏み込む。地響きを伴う一撃――防御そのものを粉砕する必殺の刃。
直政は受けることも逃れることも叶わず、歯を食いしばって衝撃に備える。
その時――
本陣の丘の上から、徳川家康がその光景を見据えていた。遠眼鏡越しに映るのは、若き家臣の危機と戦場の膠着。
隣には本多忠勝が立ち、拳を震わせる。
「殿、今すぐ助太刀に! 直政が――!」
声を放つ寸前、家康はただ一度、手を横に払った。扇を握る指が白く変色し、微かに震えることに、本人だけが気づいていた。
「……いや、無駄だ」
その声音は驚くほど冷たく、感情を排したものだった。
仮面の下で、知識と戦国武将としての計算が重なり合う。森長可――戦国最強の猛将の一角。正面から斃すには、多大な犠牲が要る。ここで直政や新太を失うことは、徳川と井伊の未来そのものを破壊することに等しい。
(武士の決闘、か。物語であれば、ここで若き武将が鬼を討ち、伝説となるだろう。……だが、俺が守るべきは伝説ではなく、未来だ)
家康は遠眼鏡を下ろし、傍らに控える砲術に長けた熟練の兵へ視線を送る。
冷徹な瞳、微動だにしない姿勢。すでに銃口は森長可を捉えていた。
(直虎様のためにも井伊次代の宝を傷つけるわけにはいかないんだ。……そしてこの戦いは、必ず完勝しなければならない。必ずだ)
家康は、重々しく扇を掲げた。
それは武士道ではなく、合理の名において振り下ろされた命令。
「……狙え。眉間を。仕留め損なうな」
扇が振り下ろされた。
――修羅はまだ吼えている。
だがその咆哮を断つ一撃が、すでに放たれようとしていた。




