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第691節『疑心の種』

第691節『疑心の種』

 伊勢長島城に、遅い春の気配が忍び寄っていた。

 だが、城主・織田信雄の心の内は、依然として真冬の凍土のように強張っていた。安土を追われ、弟を滅ぼし、今は羽柴秀吉という巨大な庇護者の影に怯えながら、辛うじて「織田家の血脈」という矜持にしがみついている。その頼りない自尊心を、大坂からの使者が粉々に打ち砕こうとしていた。

 広間に通された秀吉の使者は、上座の信雄に対し、慇懃ではあるが心のこもらぬ儀礼的挨拶を述べただけだった。献上された品も、体裁を整えたありきたりな太刀と絹。

 しかし、その直後の振る舞いが、場の空気を凍りつかせた。

 使者は信雄の脇に控える筆頭家老・津川義冬ら三人の重臣へ向き直ると、満面の笑みで深々と頭を下げた。

「津川様には羽柴様より格別のお言葉を預かっております。『先日の茶会でのご助言、まことに有益であった。貴殿のような才人こそ乱世の柱石』と」

 そう言い献じられたのは、信雄への品とは比べ物にならぬ名物の茶器だった。津川らは狼狽し辞退しようとするが、使者は「羽柴様からの個人的な友誼の証」と強引に押し付けた。その瞬間、誰がこの場の主であるかを容赦なく示すかのように。

 信雄の顔から血の気が引く。

 己の家臣が、自分を差し置き他国の主から認められている――それは「織田信雄には価値がない」という宣告と同義だった。

 ――浜松城。

 その一部始終は、服部半蔵が放った「草」により即座に家康のもとへ届けられた。

 報告を聞いた家康は、地図上の伊勢の位置を扇子で叩きながら冷ややかに吐息を洩らす。

(……露骨な分断工作だな。秀吉め、心理戦のツボをしっかりと心得ている)

 優秀な部下を持つ無能な主君。その主が最も恐れるのは、部下が自分を軽んじ、実権を握ること。秀吉は敢えて部下を優遇することで信雄の劣等感を刺激し、孤立へと追い込もうとしているのだ。

(理に適っている。でも――秀吉の計算には一つだけ穴がある。俺たちが、その毒を致死量まで強めることができるという点だ)

 家康は筆を執った。

 認めるは信雄への密書。ただし、そこに記すのは同盟強化でも慰撫の言葉でもない。

 ――疑念という名の種に、決定的な水を注ぐ一文。

『拝啓 織田信雄様。近頃、大坂より漂う風に不穏の気配を感じております。

 秀吉殿は、城を外より攻めるではなく、内を崩すことを得意とされるお方。

 御家の柱たる方々が、あまりに秀吉殿と親密との噂。もしそれが真の忠義であれば良し。されど、万一主家を売り渡すための手引きにあらば……。

 どうか御身辺と側近の動きには、くれぐれもご注意くだされ』

 名は挙げない。証も示さない。

 ただ「疑え」と囁くだけ――しかし、それが最も深く刺さる。曖昧な警告ほど、人は勝手に恐ろしい敵を想像する。忠臣の何気ない仕草さえ裏切りの徴に見えてくる。

 数日後、伊勢。

 密書を握り締めた信雄の指は白く変色していた。視線の先では津川義冬らが国政について語り合っている。かつては頼もしき姿――今は己の知らぬところで密談する逆臣の群れに見えた。秀吉から贈られた茶器が、裏切りの報酬にしか映らない。

「……貴様ら、何を企んでおる」

 その呟きは誰にも届かない。

 だが瞳の奥では、猜疑という名の狂気がどす黒い焔となり燃え始めていた。

 浜松から放たれた言葉の矢は、狙い違わず――

 信雄の理性を、深く静かに射抜いたのである。

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