第692節『三家老の正体』
第692節『三家老の正体』
伊勢長島城の奥まった評定の間には、冬の凍てついた沼地のような、重く湿った空気が澱んでいた。
上座に座す織田信雄の目は、血走っているというよりはどこか焦点が定まらず、怯えと攻撃性が入り混じった不安定な光を宿していた。その視線は、目の前に平伏する三人の男――津川義冬、岡田重孝、浅井長時――を、もはや家臣ではなく、牙を隠す猛獣の群れとして見つめている。
津川が、意を決したように顔を上げた。そこにあるのは主君の歓心を得ようとする媚ではなく、ただひたすらに家の存続を願う実務家の切実さであった。
「殿、どうかご再考を。今、秀吉殿と事を構えるは下策にございます。まず大坂へ使者を遣わし、関係修復を図るべきと愚考いたしまする」
岡田も続いた。
「左様。徳川殿との同盟心強くはありますが、いざ戦となれば、まず伊勢が戦場に。民は疲弊し、国は荒れましょう。今は雌伏し、力を蓄うべき時かと」
それは情に流されぬ冷静な分析であり、まぎれもなく「正論」であった。
彼らは知っていた。今の織田家に、羽柴秀吉と単独で渡り合う力などないことを。だからこそ、頭を下げてでも時間を稼ぎ、生き延びる――それが、彼らの忠義の形だった。
だが、論が明晰であればあるほど、信雄の心は頑なさを増していく。
その言葉は、信雄には「お前には無理だ」という宣告に聞こえた。家康から届いた密書の一文――「側近に注意せよ」 が脳裏で鳴り響く。
(……なぜ、こやつらは戦わぬ? なぜ、わしに頭を垂れさせようとする?)
思考はもはや正常ではなかった。融和の提案は国のためではなく、秀吉に取り入り己を売る算段なのではないか――先日の茶器が、その証かもしれぬ。
信雄は扇を握りしめた。ギリ、と音がした。
「……貴様ら、父・信長の威を忘れ、あの猿の足元にひれ伏せと申すか」
「殿、それは――! これはあくまで家のための――」
「黙れ!」
床几を蹴立て立ち上がった信雄に、三人は息を呑む。
「耳に届いておるぞ。お前たち、裏で秀吉と通じ、わしを疎んじているとな! その献策こそ、奴への手土産ではないか!」
あまりに理不尽な糾弾。三家老は愕然と互いの顔を見る。
しかし、ここで退けば主君は破滅の道へ進む。覚悟を決め、津川が前に出た。
「殿! 讒言に惑わされてはなりませぬ! 我らの忠心、天に誓って一片の曇りなし! 今ここで戦えば、織田は滅びまする!」
その必死の進言すら、信雄には裏切りの弁明にしか聞こえなかった。
「下がれ! 顔も見とうない!」
怒号とともに退席を命じられた三家老は、絶望を背負って広間を去った。その背には、主君に信じられぬ無念と、崩壊の予感が重くのしかかっていた。
――浜松城。
服部半蔵によってもたらされた報告を受けた家康は、静かに指を組んだ。部屋には彼と半蔵、酒井忠次のみ。
「……なるほど。津川たちは、最後の一刻まで理性を保っているか」
家康の声には感情がない。三家老は織田家の中枢を支える優秀な実務家であり、本来なら平時の国づくりに欠かせぬ人材。ゆえに、彼らが機能している限り信雄は孤立しない。秀吉と衝突せず妥協点を見出せる可能性が残る。
(だが――それこそが、我らにとっては最大の障害となってしまう)
天下の趨勢を覆すには、信雄が暴発しなければならない。徳川が「信雄を救う」という大義を掲げて兵を挙げるためには――理性の防波堤となる三家老を、まず排除する必要があった。
「……惜しいことよ」
家康は低く呟いた。
「彼らのような者こそ、平和の世には宝となろう。だが今は――戦の火種となれぬ忠臣は、かえって障る」
筆を取り、家康は和紙に向かった。
書き始めたのは、三家老が秀吉と交わしたとされる密約の書状――筆跡も口調も本人のものに偽装した、完璧な偽造文書。
『信雄を隠居させ、伊勢を献上する』
その文言が、紙の上に静かに浮かび上がる。
筆が一瞬止まる。(……本当はこれは赦されない手かもしれないが)
だがすぐに動き出した。
墨に染まった指先を見つめた。まるで血に濡れているかのように錯覚しながら。
(……恨らんでくれ、津川殿。あなた方の正しさが、あなた方を葬ることとなってしまった)
――有能なる中間管理職が消えた時、組織は頭から腐る。
その腐臭が立ち上った刹那こそ、戦の幕が上がる合図となる。




