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第690節『冬の傀儡』

第690節『冬の傀儡』

 遠江の山々は雪化粧をまとい、浜松城もまた、しんしんと降り積もる雪の中に沈黙していた。

 だが城の最奥にある家康の私室だけは、静けさとは無縁だった。そこは今、熱を帯びた思考の坩堝である。

 卓上には、織田信雄に関する膨大な報告書が積まれていた。火鉢の炎が揺らめく中、酒井忠次が低く問う。

「殿……まことに信雄殿でよろしいのですか。器量は……」

 言葉を濁す忠次に、家康は筆を置くことなく答える。

「器量が足りぬからこそ、よいのだ。忠次」

 脳裏には、知識と半蔵が集めた情報が重なって浮かぶ。

 織田信雄――偉大すぎる父・信長の影に怯え、弟・信孝との家督争いに明け暮れ、秀吉を頼って弟を滅ぼした男。その行動原理は常に「劣等」と「承認欲求」。

(自らが父の後継者として認められたい。だが現実は、秀吉の庇護なくして何もできぬ己を知っている。その矛盾が彼の心を蝕んでいる)

 家康は静かに語る。

「信雄殿は今、焦っておられる。秀吉が天下人の如く振る舞うにつれ、自分がただの飾りに過ぎぬと気づき始めた。あるのは恐怖だ。いずれ捨てられるという根源的な恐怖」

「その恐怖を突く、と……」忠次が呑み込む。

「ああ。秀吉のやり方は飴。飾り立て骨抜きにする。ならば我らは逆――毒を注ぐ」

 家康は立ち上がり、雪景色を眺める。

「最も信頼する家臣が秀吉と通じているのでは……という疑念の毒を」

 信雄には、津川義冬・岡田重孝・浅井長時という三人の家老がいる。現実を見据え秀吉との協調を説く者たち。

(優秀な中間管理職がいる限りトップは暴走しない。ならば――)

 源次の瞳に、氷の光が灯る。

(そのブレーキを彼の手で壊させる。理性を奪い、感情だけにすれば、あとは我らが手を差し出すだけでいい)

 それは非情な心理操作だった。だが乱世で徳川が生き残り、直虎や民を守るためには、織田と豊臣の激突という巨大な混沌を作らねばならぬ。

「……年が明ければ、秀吉は動く。信雄殿への年賀の使者を送ろう。親愛を示せば示すほど、それが家臣への誘惑に見えるよう、舞台を整える」

 忠次は背筋に寒気を覚えた。この深謀遠慮。

「御意。半蔵に伊勢潜入を」

 忠次が退くと、家康は一人、天井を見上げ呟いた。

(すまぬ、信雄よ。あんたには戦国の幕引きのため道化を演じてもらう。……だが死なせはしない。最終的に生き残る道も、俺が描いてみせる)

 ふと源次は、歴史書に記されたわずか四字――「小牧長久手」を思い出した。そこに、誰が引き金を引いたかなど、一言も記されていなかったことに乾いた笑みを漏らす。

(歴史は勝者が造るという……それであれば、誰が戦の引き金を引いたかは、俺が決めることができる)

 雪は降り続く。

 来るべき春、天下を二分する大戦の火種となる「疑心」の種は、この冬の夜、静かに――確かに蒔かれた。

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