幕間 帳簿の上では、まだ豊か①
◆ ◆ ◆
――西連邦・ムンバイ。
春だというのに、中央会計所の事務室は薄寒かった。本来なら柱ごとに灯されているはずの蝋燭も、今は半分ほどしか灯されていない。机上の墨まで水で薄められている。
「……おかしいわね」
若い女書記官は、各都市から届いた税帳と関税帳を見比べた。
麦も塩も布も、この数年で値上がりしている。貨物の量も増えている。それなのに、関税収入はほとんど横ばいだった。代わりに増えているのは、赤墨で記された「滞納」「未収」の文字。
そして――
《連邦外取引につき、関税対象外》
古い帳簿まで遡れば、その注記は年を追うごとに増えていた。
女は帳簿を抱え、上役の部屋へ向かった。
帳簿を差し出すと、上役は「評議会の耳に、余計な話を入れるな」と乱暴に閉じた。
「今はどこも苦しい。それでいい。不景気だと言っておけば、皆、納得する」
「ですが、このままでは――」
「君の仕事は、数字を上の者にとって都合のいい形に整えることだ」
その声は、何も知らない者のものではなかった。
宿舎へ戻った女は、一本だけ灯した蝋燭の前で古い帳簿を開いた。
かつて大陸連合自然理学院で学んだ『楽得均衡論』には、己の利益を追えば富はいずれ民へ行き渡る、と書かれていた。
学生時代、女はその余白にこう書いた。
《本当か?》
楽に得をした者たちの陰で、赤い「未収」が増えている。
「あの子に見せたら、鼻で笑われるわね」
女は赤墨を取り、帳簿の余白へゆっくりと書き込んだ。
《連邦の崩壊は始まっている》
季節は少し進み、ムンバイにも春らしい暖かさが訪れていた。
女書記官は、中央会計所の書庫で古い決議録を机に広げた。
《困窮した都市は、連邦全体の力をもって支えるべし》
《連邦は一つの身体のごとく、互いを支え合うべし》
「……でも、一番大事なことが書いてないじゃない」
「誰が、どれだけ」負担するのか。
それがどこにも書かれていない。代わりに帳簿に並んでいたのは、途中で止まった公共工事だった。
《支出保留》
《次年度繰越》
その日の夕方、女は一人の老議員を訪ねた。
「先生……これでは西連邦がもちません」
差し出された帳簿を眺め、老人は静かに頷いた。
「……君の言う通りだよ」
「じゃあ、なぜ――」
「『困っている都市を助けよう』と言えば拍手される。だが、『そのために我々が負担しよう』と言えば票を失う」
老人は自嘲するように笑い、
「だから皆、今年はまだもつ、来年こそは、と先送りした。私もその一人だ」
女は言葉を失った。
「……わ、私は、どうすれば」
「帳簿を見る者が数字に目をつぶれば、その先にはもっと大きな破綻が待っている」
老人は「知らせなさい。責任を取る覚悟のある誰かに」と言い、帳簿を閉じた。
その夜。
女は帳簿の写しを数枚用意し、真新しい羊皮紙に筆を走らせた。
《ウェスラ自由連邦中央会計所書記官の立場から、連邦財政の現状について報告を行う》
感情も、憶測も入れず、数字と事実だけを書く。
最後に署名し、帳簿の写しとともに封筒へ収める。
宛先は――
『大陸ギルド連盟中央本部 御中』
赤い封蝋に印章を押しながら、女は小さく息を吐いた。
「……これしか、思いつかなかったのよ」
見て見ぬふりをしないための、彼女なりの一手だった。
◆ ◆ ◆




