EP.43 戦う前に、数字を揃えろ
ルナは高台にある城郭の門から街を眺めていた。隣を見ると、リアムも坂の下に広がるラクナウを眺めている。夕陽が西の山にかかり、街全体を薄い金色に染めている。まるで、絵本の挿絵みたいにきれいだった。
「リアム様は、すごいですね」
「急にどうした」
「こうやって、みんなが困っていることを、どんどん解決していって……」
リアムは肩をすくめ、「まあ、俺も臭いのは嫌だからな」と眉間を指でつまんだ。
あまりに彼らしい答えでルナはくすっと笑う。
「だからって、王都を変えようとする人はいません」
「王様の願いだしな」
「誰かが困っていたら放っておけなくて、自分のことみたいに考えてしまう。そんなリアム様を私は……かっこいいと思います」
「そ、そうか?」
リアムがわずかに顔を背けた。
えっ。照れてる?
いつも何を言っても平然としている人なのに。初めて見る表情が嬉しくて、胸の奥がむずむずする。
「はい。かっこよくて、尊敬しています。それに……」
ルナは勇気を出し、一歩、距離を詰めた。袖が触れそうなところで足を止める。近い。今さら恥ずかしくなったのに、不思議と離れたいとは思わなかった。
「それに?」
「そ、それに……私、リアム様のことを――」
ミャァ。
「ひゃっ!」
鳴き声がしてルナはびくっと飛び上がった。
二人の間を、魚の骨をくわえた灰色の猫が駆け抜ける。ルナが「わっ……くさっ!」と鼻をつまむと、猫はどこ吹く風とばかりに、路地の奥へ消えていった。
「……猫、でしたね。すごく嫌なにおいの……」
何を言ってるんだろう。言いたかったことが全部頭から飛んでいった。心臓がうるさいのも、猫のせいなのかもう分からない。
「ああ。猫だったな。すごく臭い」
ちらりと横を見る。彼は街を眺めたまま、こちらを見ようとしない。けれど、耳がほんの少し赤く見えた。
……もう。
続きを口にする勇気は戻ってこなかったのに、胸の高鳴りはいつまでも収まってくれなかった。
◇ ◇ ◇
オズワルドとルナは、王都の中央を流れる川まで歩いた。魔獣襲来時とは異なり、市街地には人がひしめき、大通りは活気と喧騒に満ちている。焼いた肉の香ばしい匂いや人いきれが、街に淀む悪臭をいくらか覆い隠していた。
まあ、二一八〇年の感覚からすればここの人間の体臭自体が強烈なのだが……。問題は路地だ。
狭い路地へ踏み込んだ途端、「……う」とルナが呻いた。
桶を抱えた子どもが走ってきて、脇の溝へ中身を空ける。側溝の先を見やると、王都中央の川へ続いている。少し離れた場所には石組みの井戸があり、女たちが水を汲んでいた。
『汚水と井戸水が直接混ざってはいませんが、地中への浸透は避けられません。疫病発生リスクは高いと推定』
家屋の配置。井戸や水場の位置。
辺りが暗くなる頃には、頭の中に大まかな王都の臭気地図ができていた。
『下水道を街全体に敷設する案も、理論上は可能です。ただし、石材、労働力、工期、維持管理コストを勘案すると、現在の財政と技術水準では、実現性が極めて低いと判断します』
「知ってる。こっちにはコンクリートも自律建設作業機もない」
『ですので、運用を変えるべきです。排泄物の捨て方、溜め方、使い方を変える』
「その辺が現実的だよな」
『この世界の技術水準で、なおかつ再現可能な範囲で解決案を構築します』
ATHENAがいれば、解決策はいくらでも出せる。だが、大規模なイノベーションにはヒト、モノ、カネが要る。とはいえ方向性は見えてきたな。
オズワルドとルナが宿へ戻ると、付き人に出迎えられ、食堂へ案内された。〈暁の道標〉はすでに卓を囲んでいた。ゼッドがオズワルドとルナに気づき、「お、戻ったか。どうだった?」と手を挙げる。
残る三人も顔を上げた。ガドルはやはり体躯に見合う椅子がないのか、どこからか持ってきた膝ほどの高さの台に座っていた。
「……とんでもないな」
「ははっ! まぁ、そんなこったろうって話してたところだ」
オズワルドとルナが席に着くと、次々に料理が運ばれてきた。
肉のローストに、香草入りのスープ。皿が並ぶたび、ガドルの目がじわじわと輝きを増していく。
その後、ひとしきり腹を満たしたところで、ゼッドが口を開いた。
「じゃあ、そろそろ、今後どうするかを話そうか」
結論が出るまで、そう時間はかからなかった。
先の騒動による混乱はいまだ収束していない。この状況で疫病まで蔓延する事態は避けなければならないと、〈暁の道標〉は当面、王都に滞在して衛生改善に協力する方針を固めた。
◇ ◇ ◇
翌朝、過去の疫病を調査するため国王の許可を得たオズワルドとルナは、城郭の一角にある図書堂を訪れた。扉を開けると、紙とインク、それに古木の匂い。その奥には、思わず息を呑む光景が広がっていた。
白を基調とした広大な室内。天井へ伸びる柱には精緻な装飾が施され、見上げれば、妖精たちが舞う壁画が天井の奥まで連なっている。十メートルはあろうかという巨大な書棚が壁一面を埋め、さらに幾列もの書架が、奥行き五十メートルほどの空間に長い通路を形作っていた。隣のルナが「うわぁあ……」と声を上げる。
「これは、すごいな……」
「……すごいです。こんなに美しい図書堂、初めて見ました」
『良好な資料保管環境です』
金文字をあしらった重厚な書物、羊皮紙を綴じた古い記録。細窓から差し込む朝光が、宙を漂う埃を淡く煌めかせている。
図書堂の中央には磨き込まれた長机が等間隔に並んでいる。二人はいくつかの記録束を机へ運び、精査を始めた。羊皮紙の端には年代と病名、簡略な概要が記されている。
古い王都図を広げると、見覚えのある水路が記されていた。以前、王城へ潜入したときに使った東水路だ。記録によれば、あれは下水路ではなく、王都中央を流れる川が増水した際、水を東側へ逃がすために造られた放水路らしい。
「あれ、下水じゃなかったのか」
『構造上、常時汚水を流す目的ではありません。治水設備と考えるのが妥当です』
王都ラクナウで過去に発生した疫病の記録。
税収の推移。
兵数と、徴兵後の死亡率。
オズワルドは国王の悩みに留まらず、衛生管理そのものを国家的課題として扱うつもりだった。当然、国の中枢へ提言する以上、資料もなしに話を進めるわけにはいかない。まず、この国の実情を把握する必要がある。
ルナが別の束から顔を上げた。
「……リアム様、見てください。この三十年で大きな疫病の流行が四回……。一番酷い年は、城下の人口の一割近くが倒れています」
ルナの指先が数字を追い、
「十年前は、夏場に下痢と発熱を伴う病が流行。その前年は雨が多く、川の水位が高かった、と……」
『恐らく、上流からの汚染と、増水による市街の汚水流入が重なったのでしょう』
別の記録には、兵の配置転換と同年の病欠者数が記されていた。城下で病が流行した翌年は、徴兵後の訓練中や配属直後に死亡した兵の割合が、平年の倍近くまで跳ね上がっている。
病で体力を損耗したまま徴兵され、行軍や訓練、辺境任務に耐えきれず倒れた者が多かったのだろう。
『戦死と病死は帳簿の上では別ですが、兵力が減るという点では同じです』
「ルナ。何件か抜き出して一覧にしてくれ」
「はい。まとめます」
「臭いから嫌だ」では、ただの愚痴だ。しかし、臭いから病へ、さらに兵力や税収の損失まで因果を繋げれば話は変わる。オズワルドは机に王都の地図を広げた。
城、川、井戸、市場、貧民街。
臭い路地に赤い印。
汚水の溝に矢印。
井戸には丸印。
『視覚化としては十分ですね』
「こっから先は提案だ」




