EP.4 千里眼の守銭奴ーホークアイ・マイザー
頭上で枝が鳴った。葉を散らし、一人の女が太い枝から飛び降りる。
片膝をついた着地は軽く、背負った矢筒からは音一つしない。
「ルナ!」
「キリカさん!」
駆け寄ろうとしたルナの両肩をキリカの手が掴んだ。
「見せて」
袖をまくられ、傷がないか確かめられる。日に焼けた頬には薄いそばかすがあり、口元は不機嫌そうに引き結ばれていた。よかった、キリカさんは無事だ。C級にもなって森で迷子になるなんて。そこまで考えると急に恥ずかしくなり、思わず眼鏡を押し上げた。
「け、怪我はありません。リアム様が助けてくださいました」
「ならいいわ。捜索に何人出たと思ってるの。かかった手間賃は請求するから」
「ご、ごめんなさい」
「冗談よ。半分はね」
キリカの緑の瞳がリアムへ移った。
「あっ、こちらはリアム・オズワルド様です。魔獣に襲われたわたしを助けてくださいました」
「へえ」
目が細められ、リアムの顔から足元までを二度往復する。視線が明らかにぴっちりとした服の《《下腹部より少し下》》で止まった。……キリカさん?
「キリカ・ヴェインよ。ルナを助けてくれたなら、あたしの恩人でもあるわ。借りは返す。きっちりね」
「ああ」
キリカが差し出した手を、リアムが握り返す。握手を交わしても、キリカの目から警戒は消えなかった。ルナを助けてくれたことには感謝している。けれど、恩人だからといって、すぐに信用するつもりはないみたい。
◇ ◇ ◇
キリカは地面へしゃがみ込んだ。折れた草を起こし、泥に残る浅い窪みを指でなぞる。さらにすぐ近くの木へ歩み寄ると、幹に触れてそのまま上を見上げた。
「ここを通った魔獣は二体。片方は右の後ろ脚を痛めてる。騎士たちが追っていたのとは別ね」
ルナには踏み荒らされた地面にしか見えなかった。
キリカは〈暁の道標〉の斥候兼弓使い。二十二歳にして、すでにA級だ。四つしか違わないのに見えているものが違う。地面を一目見ただけで通った魔獣の数も、どの脚を痛めているかまで分かってしまう。こんなことができるのだから、若くしてA級へ上がったのも当然だと思う。
それだけじゃない。体術は〈暁の道標〉のリーダーに引けを取らないし、特に弓の腕はすごい。
木々に狙いを遮られていても、キリカの矢は枝葉のわずかな隙間を抜けて狙った場所へ突き刺さる。会ったことはないけど、三傑の一人、〈天弓〉に引けを取らないのかもしれない。
本人は「当たる場所から射れば当たるでしょ」と言う。魔法なら現象化の過程や魔法陣を見れば、ルナにも理解できるかもしれない。けれど、キリカの説明は何度聞いても説明になっていなかった。
そして彼女は金にうるさい。依頼書を読めば、報酬から矢一本の値段まできっちり経費として差し引いていく。リーダーのゼッドが安請け合いをした晩には、経費を書き連ねた紙をギルドの柱という柱に貼ったこともある。巷では千里眼の守銭奴なんて呼ばれていた。
でも、ルナが初めての依頼で毒に倒れたとき、キリカは三回分の報酬が消える解毒薬を迷わず買った。目を覚ましたとき「貸しよ。利子も取るから」と告げたのに、請求されなかった。
「ガドルさんとゼッドは?」
エルウィンがキリカに尋ねた。
「前線よ。あたしは周辺に残った〈勇者〉の痕跡を拾ってる」答えながら歩みを進める。「話は歩きながら聞くわ。ここに長居すると、高くつきそうだから」
キリカが金勘定を理由に急げと言ったときは、本当に急いだ方がいい。請求されるのが金で済むとは限らないからだ。
◇ ◇ ◇
木漏れ日を受け、無造作に括った灰みを帯びた茶色の髪が揺れる。キリカは緑の瞳で前方を睨んだまま言った。
「一キロ先で誘引隊が魔獣をおびき出してるはずよ」
このキリカという女、只者じゃない。背丈は百七十センチほど。ルナより高く、エルウィンより低い。人とは思えない身軽さにきりりとつり上がった目。どこか気の強い猫を思わせた。
「誘引隊がA級魔獣を戦闘地点までおびき出します」
オズワルドの横でエルウィンは歩調を緩めず説明を続けた。声音に動揺はない。
〈勇者〉捕獲作戦はこうだった。
揺動――誘引隊が魔獣をおびき出し、目標地点で別の隊が戦闘を引き受ける。魔獣の強い魔力を利用し、周辺に確認されているという〈勇者〉を呼び寄せる。魔獣を討たせたあと、〈勇者〉が人族や亜人種を襲わない性質を利用し、魔法による罠へ追い込んで捕らえる。
筋は通っている。だが、魔獣と〈勇者〉が狙いどおりに動くことを前提にした作戦だと感じた。計画そのものは整っている。誘引、交戦、捕捉、包囲、誘導、拘束──理論上は美しい。だが、そう簡単にはいかないだろう。フィールドでは必ず何かが狂う。予定外の事態はセットみたいなものだ。直後、森の奥で何か重い音が響いた。
◇ ◇ ◇
開けた場所へ踏み出した瞬間、見えたのはすでに秩序と呼ぶにはあまりにも脆弱な戦列だった。盾を並べた数人の兵士たちは巨獣に押し込まれ、その背後にいるローブ姿の杖持ちが悲鳴を上げている。
なんだ、あれは……。
山羊を彷彿とさせる頭部を備えた、漆黒の四足巨獣。四肢を地につけた姿勢のままでなお全高は三メートル前後。頭部から伸びる一対の角は優に一メートルを超え、それを振るうたび、岩塊を幾重にも継ぎ合わせたような巨躯が、軋むような鈍音を発した。
『Mr.オズワルド。念のため補足します。あれはVirethではありません』
「ああ。見ればわかる」
巨獣が吼えた。咆哮が腹腔の奥まで響き、周囲を震撼させる。兵士たちの顔から血の気が失われた。巨獣が一歩踏み込むだけで地面が抉れ、土塊が礫雨となって飛散する。
なるほど。これだけ大規模な作戦計画の理由が分かった。あれほどの存在を単なる囮として扱うのか。だとすれば、その先に呼び寄せようとしている〈勇者〉とは、いったい何者なのか。しかし、引きずり出す以前に戦線そのものが瓦解しつつある。
「戦闘隊いないじゃない! ゼッドとガドルはどこいったのよ!」
キリカの怒声。角を持つ魔獣が頭を振り、兵士二人がまとめて宙を舞った。人間という存在が、本来いかに矮小な質量でしかないのかを誇示するような一撃。巨獣はそのまま進路を変え、移動を始める。
「まずいです!」
ルナの声には明白な戦慄が混じっていた。視線を向ければ、数十人もの兵士が森の方から断続的に地面へ倒れている。生死までは遠目に分からない。
「ATHENA、Exionは?」
『セルフチェックは完了しています。正体および戦力秘匿の観点から、投入は非推奨です』
「構わない。自動操縦で呼び出せ」
『了解。自動操縦を起動。機体の現在位置、宿営地北東およそ三キロ。森林内の直線移動は不可能です。秘匿状態を維持した場合、到着予測は五十一分後です』
「遅い。四十分まで縮めろ。それまで俺が持たせる」
『了解。ただし、生身での戦闘は非推奨です』
「あ、リアム様! ちょっと待ってください!」
「倒れている者の救助を頼む!」
ルナの制止を背後に置き去りにし、オズワルドは前へ出た。巨獣がゆっくりと巨体の向きを変える。血に濡れた角が低く沈み、その姿勢は明瞭な攻撃意思を示していた。
「来い。こっちだ」
やがて、巨獣の横に細長い瞳孔が彼を捉えた。




