EP.32 生きている証
夜の廊下を抜け、ルナは羊皮紙を抱えて部屋の扉を叩く。返事を待って扉を開けると、エルウィンは服を着て椅子に座っていた。部屋には汗と肌の匂いに、かすかな甘い香り。その香りは以前にも嗅いだことがあった。
「……ルナ、体の具合はいいんですか?」
「はい! 魔獣がくるのに寝てはいられません」
「無理はしないようにしてください。それで、こんな夜にどうしましたか」
「えっと、セオドア将軍と話し合った……いや、セオドア元帥と取り決めた〈魔報〉の管理系統について、確認なんですが……」
横の寝台に目を向けると、毛布から肩を出した男が寝息を立てていた。
〈勇者〉捕獲作戦の日、天幕を開けてしまったときと同じ。ま、また……。恥ずかしさがこみ上げた。
「少し待ってくださいね」
エルウィンは寝台へ近づき、男の肩を軽く揺すった。男が目を擦りながら身を起こすと、掛け布がずれて裸体が露わになる。ルナはぎょっとして顔を背けた。男は床に落ちていた衣服を拾い、手早く袖を通す。
「また来てもいいか?」
「ええ。お待ちしていますよ」
男はルナへ軽く会釈し、部屋を出ていった。師匠の穏やかな顔には恥じ入る様子もない。
「師匠は欲が強すぎませんか」
「他人の生を、あれほど近くに感じられる行為はありませんから」
「……どういう意味ですか?」
エルウィンは椅子へ戻り、自分の掌を眺めた。
「大戦のとき、私のいた治療所には床を埋めるほどの負傷者が運ばれてきました。場所を空ける間もなく、次々に人が運ばれて来るのです」
エルウィンは膝を組み、左右の手の指を絡める。
「私はどの負傷者を優先するか、決める役を担いました。治療が間に合う者。治せば戦線へ戻れる兵士を優先しました。助からない者や、多くの魔力が必要な者は後へ回すのです」
「後へ……」
「ええ、助けてくれと言われてもね。腕を掴まれたときは、掴んでいる指を外して別の者に治癒を施しました」
ルナは羊皮紙を胸に抱き寄せた。想像しようとしても上手くできない。でも、それがどんなに辛いことだったかは分かった。話している師匠の手が震えていたから。
「限られた時間と魔力で、一人でも多く救うためには必要な判断でした。今でも私は同じ選択をします。それが……誰であってもです」
エルウィンの眼差しが真っすぐにルナを捉える。なぜだか、師匠から目を逸らしてはいけないと思った。
「ですが、正しい判断をしたからといって忘れられるわけではありません。助けを求める声も、腕を掴んできた手も」
エルウィンはゆっくり指をほどき、
「それからです。他者の体温や鼓動、呼吸といった『生きている証』に触れたくてたまらなくなったのは……。二百年経った今でも、あれは正しい判断だったのだと、何度も自分に言い聞かせています」
ルナは何か答えようと唇を開いたが、声にはならなかった。胸元へ押しつけた羊皮紙の端が折れていることに気づき、ようやく指先の力を緩める。
魔法を教えてくれるときも、仲間をからかうときも、師匠はいつも飄々としていた。今まで一緒にいて、初めて聞く話だった。
「……私なら、きっと動けなくなっちゃいます……」
「死に否定的なイメージを抱くのは、そこに恐れがあるからです。人は知り得ないものに恐怖を抱く。とはいえ、事実としては、この世に生を受け、やがて鼓動が止まる。それだけです。そこに意味を持たせてしまうのは知性や感情です」
「そんな簡単に割り切れるものでしょうか」
「できません」
エルウィンはかぶりを振り、
「二百年経っても忘れることができずにいるのですから」
顔を上げ、いつもの笑みを浮かべた。
「ルナもそのうち温もりの偉大さが分かるでしょう」
間をおいて言葉の意味が追いついてきて、ルナは耳まで熱くなった。
「わ、私はいいです!」
「冗談です」
楽しげに笑ったエルウィンが椅子に座るように促す。ルナはうつむいたまま、抱えていた羊皮紙をようやく広げた。
◇ ◇ ◇
夜を迎えてなお、東の外壁沿いでは兵士や冒険者たちが忙しなく行き交っていた。篝火の下には、すでに投石機を組み上げるための部材が並べられ、木槌の乾いた音が絶え間なく響いている。オズワルドは松明を片手に、その光景をしばらく眺めていた。
「ATHENA、作戦指令所から門まではどれくらいかかる?」
『王城から外壁まで約十キロ。早馬での所要時間は推定三十分です。現在の重力下でMr.オズワルドが走った場合、三十五分から四十分と見積もられます』
それならば、いずれかの段階で自ら戦場へ赴く必要がある。魔力を操れない自分に〈魔報〉は扱えない。ATHENAから一方的に報告を受けるほかなさそうだ。
そんなことを考えていると、ふいに悪臭が鼻を突いた。
来たときは思考に囚われて気にも留めなかったが、王都に滞留する生活臭は相当なものだった。百万人規模の都市をこの文明水準で維持している以上、下水も廃棄物処理も追いつかないことは、理屈では理解できる。とはいえ、とても耐えられるような匂いじゃないが。
城門まで戻ると、金属音か何かが聞こえてきた。ガドルが一人、石段に腰を下ろし、篝火の傍らでオズワルドの背丈ほどもある盾の留め金を締め直している。目を凝らせば、盾面には無数の傷痕と凹みが刻まれ、縁には大きな歪みが残っていた。それでも、腕を通す革帯は新しく交換され、盾そのものも丹念に拭き上げられている。
「手入れが行き届いているな」
「うむ」
オズワルドが石段へしゃがみ込むと、ガドルは手を止めることなく口を開いた。
「お前も、よく前に出る、恐くないのか」
「アンタに言えることじゃないが、誰かが行かなきゃいけない時もあるだろ」
「うむ。ある」
ガドルは革帯へ腕を通して立ち上がり、盾を斜めに構えた。肩を入れ、腕を引いては、留め金の位置を僅かにずらす。幾度か繰り返したのち、ようやく納得したように頷いた。
その後、二人が寝床に戻ろうとすると、茂みから小さな猫が飛び出した。足元を横切ろうとする猫に気づき、ガドルは踏み出しかけた足を止める。オズワルドはその様子を見て、わずかに口元を緩めた。
「この世界、猫までいるんだな」
『地球上の生物と酷似した種が存在する理由は不明です。独立した進化による一致と仮定するには、類似点が多すぎます』
「魔獣は?」
『さらに情報が不足しています。明日の戦闘がどのように推移するか、現時点では予測できません』
「この世界じゃ整えられるものは限られる。そんなことは分かってるだろ。即興でいくしかない」
オズワルドは肩をすくめ、手のひらを上に向けた。
『非効率ですが、その運用には十分な実績があります』
皮肉を聞き流しながら、開け放たれた城門の先へ目を向けた。篝火の明かりが途切れた先には、地面さえ判然としない暗闇が広がっている。
「まずは計画だな。セオドアのところに行くか」
オズワルドはガドルへ顔を向けた。
「どこに立つか決めたか?」
「……うむ」
ガドルには、まだ何かが引っかかっているようだった。
俺も同じだ。
あいつらと王都を守り、生きて帰りたい。だが、今のそれはまだ願いにすぎない。信念というものは、自ら選んだ場所に立ち、そこで行動を積み重ねるうちに少しずつ輪郭を得ていく。
頭では分かっているんだがな。
この世界に来て半年。それを信念と呼ぶには、まだ幾許かの時間が足りなかった。




