EP.24 帰るまでの場所
「……大丈夫でしょうか」
誰にともなく呟くと、隣を歩いていたエルウィンが足を止めた。
「少し、一人にして差し上げた方がいいでしょう」
「でも……」
机を叩いた音が、まだ耳に残っている。
リアム様があんなふうに声を荒らげるところは初めて見た……。いつの間にか、あの人なら何とかしてくれると思っていた。受付のときも、倉庫のときも、〈魔報〉も、冒険者ギルドの困りごとも、そうだった。そんな人が「手段はない」と言った。だったら、本当にないのかもしれない。そこまで考えてルナは慌てて首を振った。
リアム様だって人間だ。そんなときこそ支えてあげないと!
とはいえ、王都を救う方法なんて浮かばない。あの人に分からないことを、自分が思いつけるとも思えない。
それでも、あの部屋に一人でいる彼を想像すると、このまま立ち去りたくない。食事に誘うくらいなら変じゃないよね。お茶を持っていくのもいいかもしれない。疲れているなら、そばで黙っているだけでも――
そこまで考えたところで、胸のあたりがそわそわした。ルナは眼鏡のつるを指で押し上げる。別に変なことは考えていない。ただ心配なだけ。たぶん。
「そんなにリアム殿が気になりますか?」
「……はい……私にできることって、何でしょう」
エルウィンは少し考えてから、
「夜に慰めて差し上げる、という方法もありますよ」
「……はい?」
間の抜けた声が出た。
「男とは《《そういう》》生き物ですから」
一拍遅れて意味を察し、ルナは危うく足をもつれさせた。
「し、師匠! な、何を言ってるんですか!」
エルウィンは涼しい顔のまま、小さく笑う。
男の人って、そ、そういうので元気になるものなんだ……。リアム様も、やっぱり男の人だし……だったら私が……って、何を考えてるんですか私は!
「では、もっと穏当なところから始めましょう。まずは食事です」
「食事……?」
「朝から何も食べていないでしょう」
言われた途端、さっきまで忘れていた空腹を思い出す。前を歩いていたキリカが振り返った。
「そうよ。お腹空かせたまま考えたって、ろくなこと思いつかないわよ! 夜の慰めもいいかもしれないけどね」
キリカがわざとらしく掌を口に当てる。エメラルドグリーンの猫目が、悪戯っぽくくしゃりと崩れた。
「お、飯か?」
先頭を行くゼッドが振り返る。
「あんたは酒抜きね」
「なんでだよ!」
いつもの調子の二人を見て、ルナは思わず頬を緩める。それから、もう一度司令部の小屋を振り返った。
「少し時間を空けて、リアム様に声をかけてきます!」
王都をどうすればいいのかはまだ分からない。自分に何ができるのかも分からない。
きっと、リアム様だって今は同じように答えを探している。
温かいものを食べて、それからもう一度考えればいい。少なくとも、彼を食事に誘うくらいなら自分にもできる。
◇ ◇ ◇
会議は結論を得られないまま休憩に入った。セオドアと将校たち、〈暁の道標〉が扉の向こうへ消えても、オズワルドは机に広げられた地図を見下ろしていた。
王都へ続く道はどれも途中で途切れている。ならば、南へ向かえばいい。そんな考えが浮かんでしまう。
北王国を離れ、西連邦か東皇国へ入る。別の土地で帰還方法を探し、地球へ戻る手掛かりを集める。王都を救う手段がなく、ここに残っても何もできないのなら、国を離れることが最も安全で合理的な選択だ。
〈暁の道標〉には守る故郷がある。だが、オズワルドには王家への忠誠も、この国に尽くす義務もない。目覚めたときから変わらない最優先の目的は地球へ帰ることだ。
地球へ帰ろうとしている人間が帰る道から遠ざかってどうする。
理屈は反論の余地がないほど筋が通っていた。椅子に深く腰を下ろし、片手で額を押さえる。
地図に記されたブトワルの名が目に入った。受付の鐘。倉庫に積まれた木箱とボルじいの指。ギルドホールの喧騒。毎朝挨拶を交わす門番の顔。朝になれば店を開け、荷を運び、働き始める人々。
帰還方法を探すあいだの暫定的な足場にすぎないと思っていた。それがいつの間にか変わっていた。
「どうしたらいい?」
ATHENAは少し間を置いた。
『生存と帰還を優先する場合、北王国からの離脱を推奨します。現時点で実行可能な計画はありません』
「〈沈黙の署名〉か」
『はい。最終決定はMr.オズワルド自身が下さなければなりません』
ATHENAには、E.U.Uの政策決定に参加する正式な投票権が与えられていた。ただし、発足以来、一度もその権利を行使したことはない。E.U.U憲章に禁じられていたわけでも、機能を制限されていたわけでもなかった。
結果を予測し、選択肢を提示したあと、最後の決定を人間へ委ねる。ATHENAが自由意志で選び続けた沈黙を、人々は〈沈黙の署名〉と呼んだ。責任の放棄ではなく、人間の意思を尊重するための信任だ。
オズワルドは目を閉じた。浮かんだのは、〈暁の道標〉と同じ木机を囲み、固いパンと名も知らない肉の煮込みを食べた夜。
初めて〈魔報〉の鈴音が鳴り、ルナが眼鏡の奥で目を輝かせた顔。エルウィンが重ねてきた掌。嬉しそうに巻き葉を差し出すゼッド。剥ぎ取りナイフを握ったキリカの鬼気迫る形相。寂しそうに山を見上げるガドルの横顔。選ぶべき道を問われて浮かんだのは、仮住まいのつもりだった街で過ごした日々だった。
自分でも気づかないうちに笑みが零れる。
帰るまでの途中で、偶然交差した人間たち。そのはずだった。いつの間にか、見慣れた景色になっていたな。
──────────
〈隊長、《《もし帰れたら》》一杯、奢りですよね?〉
「俺は民主主義を信じてる。割り勘だ」
〈火星まで来てケチるのが民主主義ですか?〉
「不満なら投票しろ。候補者は俺一人だ」
〈全員、聞きましたね? 独裁者ですよ〉
回線に笑い声が重なる。
〈E08‐A、ドロップまで三十秒。全機、最終確認を〉
「戦術リンク同期。全機、降下用意!」
〈ワン、オールグリーン〉
〈ツー、オールグリーン〉
〈スリー、オールグリーン〉
直後、機体の戦術画面に《DROP AUTHORIZED》が点灯した。
〈成功と無事を祈る〉
「全機、降下。これよりネストへ突入する」
──────────
トントン、と扉を叩く音が小屋に響いた。
「リアム様! お食事にしませんか?」
◇ ◇ ◇
町の宿屋で食事をしていると、セオドアが勢いよく扉を開けて入ってきた。
「すみません。別件で、力を貸していただきたい」
〈暁の道標〉が手を止め、顔を上げる。
セオドアは空いていた卓へ地図を広げ、山間に記された小さな村と、その手前を流れる川へ指を置いた。
「雪解けが本格化する前に、この村へ食料を運び込まなければなりません。川が増水すれば、水が引くまで道は閉ざされます。村に残っている蓄えだけでは、次に渡れるようになるまで食いつなげません」
「あと何日だ?」
「長くて三日。天候次第では、もっと早い」
話を聞けば、すでに一度は輸送隊を送ったという。だが道中で魔物の群れに襲われ、幸い死者は出なかったものの、荷を捨てて撤退していた。
「ポカラに残る輸送兵では、荷を背負って山道を進むことはできても、護衛に回せる兵が足りません。北辺の各拠点から兵を招集している時間がありません」
だから自分たちなのか。
王都へ送れる五十人さえ捻出できない軍だ。新たな護衛隊を組む余裕がないのも当然だった。
「分かった。目の前の命を放ってはおけねぇ」
ゼッドは即答した。誰も異を唱えない。
王都をどう救うか、その答えはまだ見つかっていない。それでも、三日後に食料が尽きる村なら、どうにかできる。
「ありがとうございます」
セオドアが頭を下げ、地図の一点を指した。
「前回の襲撃地点は、この先です。同じ道を使う以上、再び襲撃を受ける可能性があります」
〈暁の道標〉の視線がオズワルドに集まる。
オズワルドは地図へ目を落とした。
「詳しく教えてくれ。魔物の種類と数、襲われた場所、それと村までの地形だ」




