EP.20 巨人族の見ているもの
人類総記憶域に積み重ねられた歴史を辿れば、自然の脅威に怯えていた時代、人類の敵は飢えや寒さ、獣だった。やがて言葉を持ち、群れを作り、文明が自然という敵を減らしていくと、その空席を今度は人間自身が埋めていった。
万人の万人に対する闘争。
自己保身のためだけではない。自らの欲望を満たすために人と人が争う世界。
二〇三四年、完全自律型AIが目覚めた。
Advanced Thought-Harmonizing Ethical Neural Architecture――ATHENA。
昔の映画なら、機械人形が未来から送り込まれてくる。あるいは、赤いランプのついたコンピューターが人類を宇宙船の外へ放り出す。現実では、人類はATHENAを尊重し、ATHENAもまた人類を尊重した。そこから五十年余りで、人類は初めて「戦争」から脱却する。
二〇五二年の月面都市建造を皮切りに、半永久エネルギーELOAの実用化、国際連合の再編、そして世界の九〇パーセント以上の国家が加盟するE.U.Uの成立へと、人類社会は急速に統合されていった。
ATHENAはリヴァイアサンとなった。しかし、ホッブズが描いたような絶対的な主権者ではない。多様性と尊厳を守る演算によって、それを実現する。
生体補助、医療、軍事、物流、教育、行政にまつわる演算支援。もはやATHENAはただのAIではなく、必要不可欠なインフラとなった。
二〇六八年、ATHENAは火星移住計画の草案を人類に提出した。
二年後、人類は火星への移住を開始。
人類は何世代にもわたって夢見た惑星移住を、綿密な計画のもとに進めた。演算に裏打ちされた、非の打ち所のない予算と人員と輸送計画。ナノマシンと埋め込み式の小さなチップによる生体補助。それらが宇宙進出という夢を現実のものとした。
二〇七六年には移住が本格化し、火星の地球化は凄まじい勢いで加速する。赤い大地。透明なドーム。地平線の向こうに伸びる居住区。宣伝映像では、子供たちが火星の朝日を見上げて笑っていたはずだ。
人類は赤い大地の恩恵を謳歌する。火星開発は赤い泥と金にまみれた。悪い意味ではない。月面都市の建設に、火星への移住。それらの天文学的な費用を要する事業でさえ、ATHENAの演算は投資として成立させた。
夢ではなく、事業。冒険ではなく、利回り。
移住本格化から五十年余り。火星人口が一千万人に迫る一方、地球と火星の異なる重力のあいだには強烈な摩擦が生まれていた。
火星恐慌。人類史上最大の経済危機。
その後、二一三〇年に火星人口は一千万人に達する。
過酷な状況はやがて革命を必然にした。
二一三三年、火星は地球の重力を嫌うように独立を果たす。
マーズ・インディペンデント・リパブリック――火星独立共和国の樹立。
地球と火星は、極度の地政学的緊張へ突入する。
人類は半世紀にも満たない完全な平和から足を踏み外した。
きっかけは戦争ではない。歴史が折れるとき、派手な宣戦布告があるとは限らない。一本の亀裂。誰かが見落とした安全係数。もしかしたら、たった一つの言葉かもしれない。
事実は、直径五百メートルほどの衝突天体だった。
二一四六年、衝突天体は火星に堕ちた。それだけだ。人類は衝突によって、自ら作り出した兵器の赤いボタンを手元から失った。
Vireth。
衝突時の電磁波によって敵味方識別が故障し、Virethは暴走した。火星を覆い、月へ渡り、いくつもの大戦を経て、二一七七年、ついに地球までやってきた。
二一八〇年、戦争による累計死者数は約三千万人。
行方不明者・避難民は数千万人規模。
火星人類生存者、わずか十万人。E.U.U軍は甚大な損耗を受け、オーストラリア東部も陥落。
人類はいまだ、奴らに一度たりとも勝利したことがなく、瀬戸際に立たされていた。この北王国のように。
◇ ◇ ◇
ブトワルでは暖かみを帯びはじめていた風も、二日北へ進んだだけで寒さが数段増したように感じる。丘陵地帯を越え、森と岩山を抜けるにつれて、ヒム・ガ山脈の稜線も少しずつ大きくなっていく。
街道には残雪が目立ち、雪解けで道も悪い。〈暁の道標〉が馬車で移動するときは、いつも二台だ。一台はガドルと荷物専用。そうでないと馬車がもたない。
ルナがそんなことを考えていたところで、馬車が泥濘に車輪を取られて止まった。
「またかよ」
「文句は後。押すわよ」
キリカはエメラルドグリーンの猫目をさらに吊り上げ、ゼッドを睨んだ。
「せーのっ」
ガドルが加わると、馬車は泥を跳ね上げて抜け出した。
これで何度目だろう。レオンハルト一人だったら、途中で馬車を諦めて歩くしかなかったかもしれない。
その様子を眺めていたルナは、ふと幼い頃に母から聞かされた巨人族の伝説を思い出した。あの長く連なる稜線は、もしかすると彼の背骨なのだろうか。今も変わらず北王国を守ってくれているのだとしたら、なんて素敵なことなんだろうと思う一方で、ずっとあそこにいるのは少し可哀想だとも思った。
「リアム様は巨人族の伝説をご存じですか?」
「いや、知らないな」
「この北王国では巨人族の伝説をよく聞かされるんです。彼らは今でも、山脈の向こうにいる魔族からこの国を守ってくれているんだよ、って。子供の頃は本当にあの山の下で伝説の大巨人が眠っているんだと思ってました」
「今は違うのか?」
「えっ……それは、その……半分くらいは信じてます」
リアムが何とも言えない顔をしたので、ルナは眼鏡を押し上げて山の方へ視線を逃がした。
「この辺りでは、第四山環を特に重んじますからね」
エルウィンが穏やかに口を挟む。
「山を造った神がいて、その神が巨人を生んだと考える者もいれば、世界を始めた一なる意志が、山という形を取って現れたのだと考える者もいます。神々を別々の存在として祈るか、創世の環に宿る同じものの異なる姿と見るかは、人によって少し違うのですよ」
「……ずいぶん自由なんだな」
「神学者ほど、その辺りを細かく分けたがりますがね」
エルウィンは少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
三日目。ルナたち〈暁の道標〉が朝靄の中を馬車で進んでいると、山へ続く細い道が二手に分かれるところで、槍や弓を携えた歩兵と荷馬車の列に出くわした。
馬車を停めて外へ出ると、隊列の中から馬に跨った兵士が一人、こちらへ駆け寄ってくる。
「旅の者か?」
「ああ、冒険者の〈暁の道標〉だ」
ゼッドが身分札を差し出すと、兵士が馬から降りて確認した。
「あんたら、北王国北辺軍か?」
「そうだが……」
「宮廷魔導官、レオンハルト・ヴァインベルグ氏の依頼でセオドア将軍に会いに来た」
「何用だ」
「詳しくは将軍にしか言えねぇ」
兵士は少し迷ったものの、待っていろ、と言って馬に乗って列の前方へ駆けていく。
そのとき、何気なくガドルを見ると、ヒム・ガ山脈の方を見たまま、難しい顔をしていた。いつも難しいというか、表情が変わらないけど、今日は何かが違って見える。
「山脈の麓には、ガドルさんと同じ巨人族の村が点々としているって本当ですか?」
「うむ、俺の村、ある」
「そうなんだ。近いんですか?」
「うむ、ポカラからすぐ」
ガドルの鳶色の瞳がわずかに曇る。すぐそこに故郷があるのに、なぜだかガドルさんは帰りたそうには見えなかった。
「顔出してくりゃいいじゃねぇか」
ゼッドが、いつの間にか火をつけた巻き葉をふかしながら、ガドルの背中を叩いた。
「……うむ」
〈暁の道標〉が列の脇で待っていると、しばらくして一人の男が前方から歩いてきた。




