EP.17 ミリタリー・ロジスティクス
なぜこの人はこんなに色々なことを知っているのだろう、とルナは思った。大賢者というには魔法の知識が乏しい。けれど、戦いの知識や、聞いたこともない知識をたくさん持っている。
何よりみんなが「当たり前」だと思っているものを、当たり前ではないように眺める。前に言っていたリアムの故郷はそんなにも技術が進んでいるのかな。
リアムは灰色の瞳を地図へ落とし、指でその上をなぞった。
「最初から北部全域へ広げる必要はない」
地図の端にはルナが生まれ育った町が描かれていた。幼い頃のルナが知っていた世界は、母親と家と一冊の教本だけだった。
魔法への興味だけは人一倍――いや、人の百倍くらいあったけれど、それ以外のことにはほとんど関心が湧かない。そんな子供だったから友達もいなかった。
もちろん、最初から魔法が使えたわけじゃない。魔術を学び、実際に扱える者は限られている。
きっかけは母が使った生活魔法。
蝋燭に小さな灯火をともす母の手を見て、ルナは訊ねた。
――『どうやったらできるの?』
母が教えてくれた方法はひどく感覚的なもので。魔力を感じ、集めて、火を思い浮かべる。ルナにはそれが分からなかった。だからこそ知りたくなった。その気持ちを我慢できなかった。
文字は母に教わった。家にあった初級の魔法教本を何度も読み、灯火の魔法を自分なりに解釈した。魔力をどう動かすのか。何を思い描くのか。「魔法を扱う感覚」を一つずつ言葉へ置き換え、やがて魔術の設計書として紙に書き起こした。気づけば一年が経っていた。
完成した設計書を見た母は驚いた。本来なら読み書きを学ぶ機会すらほとんどない貧しい家の娘が、七歳で設計書を書き上げてしまったのだ。今思うと《《魔術の設計書》》と言うには稚拙だったけれど。
それからほどなくして、町にいた自然理魔導士が家にやってきた。先生から魔術を学ぶ日々が始まり、母は見る見るうちに痩せていった。
十二歳になる頃には、その先生が大陸連合自然理学院への推薦状を書いてくれた。
――『あなたの母は自分の食事まで削り、私を雇いました。これから、たくさんのことがあるでしょう。悩み、苦しむときもあるでしょう。けれど、人生は長く続きます。「知りたい」という気持ちは忘れないでください』
「――まずは、この三区間だけで試す。馬車も倉庫も中継場所も、今あるものを使う。物資の紛失や護衛費の増加が確認された時点で、従来の運び方へ戻せばいい」
リアムの声にルナは我に返った。
地図の上では、彼の指がブトワル周辺を示している。限定的な試験運用なら受け入れられると、各支部の代表たちもようやく頷いた。
◇ ◇ ◇
試験運用の初日、多少の混乱は生じた。新たな手順を導入すれば、避けられない類の混乱だ。
三つの町から届いた荷は、中継拠点であるブトワルでいったん荷下ろしされる。ブトワル宛ての荷を抜き、残余を行き先ごとに仕分け、それぞれの町へ向かう馬車へ積み替えた。一週間を待たずして、予定された物資はすべて各町へ届いた。
『経費、従来比三十パーセント減を確認』
その実績を受け、新たな流通網の試験運用はさらに複数の町へと拡張された。規模が広がるにつれ、ブトワルは単なる中継地点ではなく、各支部の不足と余剰を調整する拠点へと変わっていった。
〈魔報〉を通じて不足品の報告が届くと、リュミエールの姉であるマリエルが共通帳簿に記載する。帳簿を確認したボルドじいさんが、記号と数字で体系化された棚から必要品を取り出し、不足を抱える支部行きの便へ積み込む。
試験を重ねるほど物資の廃棄量は減少し、空荷のまま帰還する馬車も目に見えて減っていった。
物流網が十の町へ広がったある日、〈魔報〉が緊急を知らせる音を鳴らした。通りかかった冒険者パーティが魔獣の群れを発見し、最寄りのギルドへ報告したらしい。
従来であれば、早馬が各支部を巡回して討伐依頼を伝達する。早馬は馬車より速い。だが、一頭の馬が報せを届けられるのは、その馬がたどり着いた先だけだ。討伐隊が現場へ到着する頃には、すでに近隣の町や農家、旅人へ被害が波及していることも珍しくない、とヴァレリオは言っていた。
だが今回は、〈魔報〉によって各支部へ即座に情報が共有された。
緊急を告げる鈴音が絶え間なく響く中、マリエルが口を開く。
「群れが確認された近隣に村があるそうです」
『優先度を更新。住民退避、防衛資材、戦力集結の順です。なお、現行の情報処理方式は依然として非効率です』
オズワルドは片手を上げ、指先だけで追い払うように振った。
『反論としては認識しません』
ヴァレリオは必要な人員と物資を即座に書き出し、マリエルがその内容を各支部へ〈魔報〉で送信した。
「……ふむ。ここから三日行った村だ。〈暁の道標〉も現場に行ってほしい」
「もちろんだ!」
逆立った赤髪を揺らし、ゼッドは間髪を容れずに答えた。条件に合う冒険者たちは最寄りのギルドへ集結し、そこから現地へ向かう。早いパーティは報告の翌日には村に到着していた。
◇ ◇ ◇
〈暁の道標〉が村へ到着する頃には、武器、矢、治療道具、食料、防柵用の木材までがすでに搬入されていた。荷を下ろした馬車には子供や老人、病人が乗せられ、ちょうど避難が始まろうとしている。
現地へ入ったオズワルドは、北側の街道を歩き、周辺地形を改めて確認した。村の手前で道幅は狭まり、その両脇には緩やかな斜面が連なっている。
『魔獣の進路と地形を照合。防衛線の構築には街道が狭まる地点が適しています』
「同感だ」
三日で城壁は築けない。だが、やつらの進路はこちらで限定できる。ゼッドとガドルは防柵の構築に当たり、エルウィンは治療拠点を整えた。キリカは斥候として群れを監視し、ルナは〈魔報〉の前を離れず、キリカとマリエルからの信号を受信する。
〈暁の道標〉が村へ到着して三日目の朝、斜面の彼方から魔獣の群れが姿を現した。
そして夕刻。
最後の一体が地に伏し、湧き上がる歓声を背にオズワルドは泥と血に汚れた防衛線を見渡す。最終防衛線を突破した個体は一頭としていなかった。
勝因を火力と呼ぶこともできる。実際、魔獣を殺したのは剣や矢や魔法だ。戦場では派手な戦果ほど記憶に残る。だが、その剣を持つ人間を前日に馬車へ乗せたのは誰だったのか。
矢が尽きなかったのも、負傷者を治療できたのも、あらかじめ周到な準備ができたからだ。
つまり、情報を共有し、兵站をつないで、必要な戦力を、必要な地点へ、必要な時刻までに送り込んだ。弾薬も食料も届かない場所では、どれだけ腕のいい兵士でもそう長くは戦えない。
襲撃後、近隣支部の代表たちは帳簿と現地支部の報告を確認し、相次いで共同輸送網への正式参加を決定した。輸送効率だけでなく、避難や戦力集結への効果まで数字として克明に記されていたからだ。
ブトワル支部の会議室でオズワルドは壁に掲げられた地図を眺めていた。〈魔報〉と定期便によって接続された支部を示す印が、街道に沿って幾つも連なっている。隣に立つヴァレリオも同じ地図へ目を向けた。
「ギルドの悩みの種をどうにかしてもらうつもりが、とんでもないもんが出来上がったな」
「ああ」
「つまり、無駄を省く仕組みが人を守る仕組みにもなったわけだ」
オズワルドは小さく頷いたが、何も特別なことではない。
軍の軍事兵站だって、武器や食料だけを運んでいるわけではなく、行きには補給物資を積み、帰りには負傷者を運ぶ。在庫管理も、結局は同じ話だ。
「だが、民を守るのは本来、国の役目じゃないのか? どうして民間組織の冒険者ギルドがそこまでやる。報酬だって出てないんだろ」
「出資者がいる。それに……今は国内の情勢が少しきな臭い。だから北王国では、本来軍がやらなければならないことを冒険者がやっている」
オズワルドが眉を寄せる。
「どういう意味だ。きな臭い?」
ヴァレリオはしばらく地図へ視線を落としていた。街道に並ぶ支部の印を追い、やがて小さく息を吐く。
「まだ確かな話じゃない。噂と断片ばかりだ。できることなら、全部ただの取り越し苦労であってほしいんだがな……」




