EP.13 風呂事情
街の門が視界の端に浮かび上がる頃には、両脚は鉛を詰め込まれたように重くなっていた。自分の汗と魔獣の体液が混じった臭気が全身にこびりついている。オズワルドは鼻を突く悪臭に、思わず顔をしかめた。
「おい、リアム。そういえばあの白い鎧はどうした?」
ゼッドが首をひねる。
「目立ちすぎるから、北側の林に隠している」
「ひょえぇ……あんな高級そうな装備、森の中に放置って正気?」
キリカが、金貨の山を無造作に捨てられたような顔をした。
「明日、運びきれなかった素材を取りに行かねぇとな……」
ゼッドが心底辟易したように呻く。
今回、〈暁の道標〉は魔獣討伐の依頼を受け、北方の森へ赴いていた。当初はさほど脅威度の高くない魔獣を相手にするはずだったが、蓋を開けてみればその想定を大きく逸脱していた。
遭遇したのは、以前〈勇者〉捕獲作戦で交戦した巨獣にも引けを取らない大きな魔獣だった。最終的にExionを自動操縦で投入。討ち果たしたものの――結果が、この有様だ。
「リアムが狙ったのが魔核じゃなくて、頭でよかったわ」
キリカがじろりとオズワルドを睨み、露骨な不満を投げつけてくる。
「……善処する」
魔核――いわば獣の心臓部に相当する器官。素材として買い取られる部位の中でも、とりわけ高値が付くという。通常の獣と異なり、魔獣は大気中の魔力を本能的に魔核へ取り込み、魔法のように行使できるそうだ。エルウィンからそう教わった。
魔獣の生態、素材価値、果ては生物の解体手順まで。
何歳になろうと、未知というものは際限なく現れる。
◇ ◇ ◇
街へ入る頃には、空は濃い群青へ沈んでいた。初めて通る路地にひときわ大きな看板が見えた。油ランプの灯を受け、煤けた板面に描かれているのは木桶と湯気、布切れの意匠。それだけで、「ここは風呂屋だ」と容易に判別できる。
その店の前を通りかかったところで、袖をぐいっと引かれた。
「だ、だめです!」
振り返ると、ルナが大きな眼鏡の下で頬を紅潮させ、首をぶんぶんと横へ振っていた。
「あ、あそこは、えっと、その……冒険者や商人が、その、一日の終わりに、いろいろ……するところで……」
「いろいろ?」
「ちがっ、違うんです! お風呂に入るだけの方もいるって聞きましたけど、その、女の人が、こう、その……寄り添って……」
『様々な情報を総合すると、身体の癒やしに加え、精神的慰安サービスがセット提供される公衆浴場と推定』
耳まで真っ赤になったルナが悲鳴じみた声で続ける。
「リアム様は、そういうところ、行かなくていいです!!」
『感情解析。独占欲、微増』
必死なルナに腕を引かれながら、オズワルドは開け放たれた入口の中を覗き込んだ。見えたのは、濁った茶褐色の湯を湛えた巨大な木桶と弛緩しきった表情の男たち。そして、肌を大きく露にした衣装で男たちの背を流す獣人族の女たちだった。姿形は人間とほとんど変わらない。ただ、頭には獣の耳が生え、腰の後ろでは長い尾が揺れている。
『水質解析。……大腸菌群、レジオネラ属菌、その他雑菌多数』
「……あれはまずいな」
露骨に顔を引きつらせたオズワルドを見て、ルナは安堵の息を吐いた。
「わ、分かってくれましたか? あんないかがわしい場所、リアム様には似合いません!」
『会話分析。双方の結論は一致。ただし、忌避理由には明確な相違を確認』
「ああ、そうだな。不潔すぎる」
『現地文化への適応を優先すべきです。「郷に入っては郷に従え」。ただし、病原菌まで現地基準へ合わせる必要はありません。別の方法で衛生状態を整えてください』
「はいはい。『Keep it J.』だろ? 分かってる」
二十世紀後半から二十一世紀にかけて、世界はグローバル化と資本主義というイデオロギーを原動力に発展した。その潮流の只中で、日本は固有の精神性を保持したまま独自の発展を遂げる。国際的でありながらグローバリズムではなく、近代的でありながら西洋化とも違う。
それまで日本の内側にあった精神性がソーシャルネットワークで可視化され、animeが物語という形で世界へ運んだ。
日本は世界の人気者。アメリカと中国は嫌われ者。
そんな粗雑な言説が流行したのは、諸国家がなお互いの腹積もりを測っていた時代の話だ。やがてATHENAは、その精神性を抽象化し、普遍的倫理規範として再構成した。
――Keep it J.
「Keep it J.」は、日本人の精神性からATHENAが抽出した倫理規範の総称だ。「郷に入っては郷に従え」も、その一つ。“When in Rome.”とは異なり、自己の振る舞いを律するための言葉。
風呂は断念しよう。あの液体に浸かるくらいなら、冷たい布で全身を拭う方が百倍ましだ。いつかこの世界にちゃんとした浴室を作ってやる。
「でもよ、なんで獣人族ってあんなにいい体してんのかね」
ゼッドが下卑た笑みを浮かべる。
「全員がそうではありませんよ。ただ、ああいう場所で獣人族をよく見かけるのには、少し歴史が関係しています」
「歴史?」
オズワルドが訊ねる。
「ご存じないですか?」
「ああ。教えてくれ」
「獣人族はもともと南方のス・レンカ島を故郷とする民です。昔は人族の国で就ける仕事がかなり制限されていました。〈人魔大戦〉のあと、多くが三国へ移り住み、そうした制限もなくなりましたが、仕事の偏りは今も残っています」
「俺はてっきり、全員ああなのかと」
ゼッドが空いているほうの手で怪しい手つきをする。
「あなたは少し黙っていなさい」
キリカに睨まれるゼッドを横目に、オズワルドはふと思った。
「そういえば、この世界にはどれくらいの種族がいるんだ?」
「大きく分ければ五つですね。人族、獣人族、エルフ、巨人族、竜人族です。ただ、獣人族だけでも、獣の種類によって様々な系統があり、血の濃さによって見た目も大きく変わります」
「血の濃さ?」
「ええ。人族との間にも子を残せますから。血が薄くなるほど、特徴が耳や尾にしか現れない者もいます」
「なるほど」
オズワルドは小さく頷いた。
「いや。……まずはギルドだな。報告が先だ」
オズワルドがそう告げると、ゼッドが「そうだそうだ!」と豪快に笑い、ガドルは無表情のまま静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
ギルドの扉を押し開けた途端、夜気の冷たさから一転、むっとした熱気が肌へまとわりつく。
「おーい! 戻ったぞ!」
ゼッドが声を張ると、近くのテーブルから何人かが顔を上げた。
「ずいぶんボロボロじゃねぇか。大丈夫か? 全滅してないよな?」
半ば冷やかし、半ば本気の視線が一斉に向けられる。
「全滅なら、俺は喋ってない」
ゼッドがそう返すと、何人かが「そりゃそうだ」と笑った。
ギルド職員に持ち帰った魔獣の素材を引き渡し、一行は空いているテーブルへ向かう。
椅子へ腰を落とした瞬間、張り詰めていた疲労がどっと押し寄せる。
背丈が三メートル近いガドルは、当然ながら人間用の椅子には収まらない。自らの巨体に合わせて特注された椅子を引き寄せ、重々しく腰を下ろした。
「リアム様、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
ルナが心配そうに覗き込んでくる。
「問題ない。ただ、解体作業は……二度と御免だな」
口にした途端、先ほどの惨状が鮮明に脳裏へ蘇った。
黒い巨獣の亡骸。ナイフを握ったキリカが鬼気迫る形相でオズワルドを睨みつけていた。
――『ここ、筋を切ってから骨から肉を削ぐの。そこ! そうじゃない! アンタ、素材の剥ぎ取り方が下手すぎ! 金をドブに捨てる気!?』
反駁の余地もなく、オズワルドは黙々と指示に従うほかなかった。
「……生き物を解体するのは専門外だ」
『同意します。Mr.オズワルドは、生物資源の回収工程において著しく非効率です』
キリカが横から「はぁ?」と怪訝な顔を向ける。
オズワルドは肩をすくめ、両手を軽く広げた。
「でも、ちゃんと魔核は取れました」
ルナが微妙な空気を取り繕うように笑った。
「ね? あの大きさなら、かなりの額になりますよ」
エルウィンが満面の笑みを浮かべる傍らで、ゼッドが言う。
「ああ、受付のリュミエールの目が輝いてたもんな」
「素材だって、角と甲殻だけで小金持ちコースよ」
キリカが早くも金勘定を始める横で、ゼッドはすでに木杯を片手に、巻き葉の煙を豪快に吐いていた。




