EP.12 中庸と効率
数日後、オズワルドはギルドホールで赤みを帯びた褐色の冬殻酒を片手に、周囲の喧騒へ耳を傾けていた。木杯の中では温めた石がからころと音を立てている。〈冬殻〉と呼ばれる硬殻果から造られる北王国特有の酒で、甘さはほとんどない。口に含めば強い酸味が広がり、鼻には樹脂を思わせる香りが抜けた。
この世界へ来て一か月。いまだ帰還への端緒は掴めていない。
「受付の件、お見事でしたね」
振り向くとエルウィンだった。彼はオズワルドの向かいへ腰を下ろす。
「ルナから聞いたのか?」
「ええ。誰もが思いつきそうで、誰も変えられなかった仕組みを、ああも容易く……」
エルウィンはしばし黙り、そっとオズワルドの手へ掌を重ねた。
「……なんだ」
「今夜、私の部屋へ来ませんか」
そういえば、この男はそういう性的嗜好だったな。
二一八〇年では、多様性は広く尊重されていた。無論、倫理と規範の範疇において、だ。前世紀とは異なり、家族観も性愛のあり方も随分と多様化していて、家庭によってはパパが二人いるし、ママが二人いるのもめずらしくない。
AUREX――ナノマシン技術の普及以降、男女間の社会的格差も大幅に希薄化した。筋力など生物学的差異まで消失したわけではないが、それを理由に仕事を制約されることはほとんどない。
『あらゆる人間の尊厳を認める』。
かつて米軍の倫理教材でも扱われていたその理念は、百年を経て、組織がE.U.U軍となっても、そのまま明記されていた。軍隊も男女混成が当たり前。勤務を終えれば、男も女もそれぞれ好きな相手と《《夜のたしなみ》》を楽しむ。ただ、男相手に限れば、オズワルドはいまだ童貞だが。
かぶりを振った。
「悪いが、遠慮する」
「男性はお嫌いで?」
「いや」
「私が嫌い?」
「それもない」
「では、残念です」
「随分あっさりだな」
「嫌がる相手を口説く趣味はありません」
エルウィンは少しだけ目を細め、
「ただ、少し意外でした」
「何が」
「あなたにも、そういうものがあるのかと思っていましたので」
「そういうもの?」
「寂しさです」
返答を待たず、エルウィンは「失礼」と添えた。
「いや」
その瞬間、オズワルドの脳裏に一人の女性が浮かんだ。
「昔の恋人ですか」
「何の話だ」
「今、思い出した方」
言い当てられ、心拍がわずかに跳ねる。
昔、材料工学者のノーラ・ベックという女性と七年間同棲していた。仕事を優先して火星へ赴くことになり、それを機に別れた。
オズワルドは幼い頃から機械に魅了されていた。部品工場に勤める父が、趣味で車やバイクを自ら組み上げる姿を見て育ち、気づけば自分もその隣で機械を弄るようになっていた。その延長で、カーネギーメロン大学の機械工学科へ進み、そのまま大学院でロボティクスの博士課程を修了した。
長くエンジニアを続けていると、あらゆる事象に因果を求める癖が染みつく。無駄を削り、問題を分解し、最短の解決策を選ぶ。それは機械を相手にするには便利だったが、人間を相手にするには必ずしもそうではなかった。
マザー・テレサ曰く、思考は言葉となり、言葉は行動となる。効率ばかりを求めれば、口から出る言葉も、人との距離の取り方も、やがて効率という尺度へ収斂していく。オズワルドもその例外ではなかった。
ノーラは、そんなオズワルドに「人間は最適化するものじゃない」と教えてくれた女性だった。
「……踏み込むじゃないか」
エルウィンは何も言わず、微笑を浮かべたままオズワルドを見つめた。数秒の沈黙の後、視線を木杯へ落とす。
「今夜は諦めますが……」
そう言って、木杯を傾けると、
「生物というのは、『生』の実感を強烈に得たいときがあります」
「ずいぶんと理屈じみた言い回しだ」
エルウィンはふっと笑いを零し、
「寂しいときや心細いときは頼ってください」
その一言は奇妙なほど心地よかった。
自然と笑みが零れる。
「ああ」
◇ ◇ ◇
「兄ちゃん、○2の青い瓶を三箱。……それと△1の灰色の塊を二つだ」
「おう!」
埃と木材、油脂の臭気が混淆するギルドの倉庫で、ボルドじいさんの指示を受けた倉庫番の男は、返事と同時に駆け出した。狭い通路を慣れた足取りで右へ折れ、棚の陰を縫うように進んでいく。
天井から吊るされた木札には、大きく描かれた「○」の印。
その下の棚には焼き印の「2」。
さらに箱の側面には、簡略化された小麦の穂と青い瓶の図柄。
一瞬だけ立ち止まり、男が絵を指でなぞる。数字にも随分と慣れたらしい。箱を三つ担ぎ上げて戻ってくる。その様子をオズワルドは入り口から眺めていた。
「なあ、リアムさん」
「ん?」
「迷子にならない倉庫なんて初めてだ。……字が読めなくても、分かるなんて、なんか、頭良くなった気がするな」
額の汗を腕で拭いながら男は笑う。
「ああ。頭を使わなくて済むようにしたんだ」と、言いながら親指を立てた。
『正確には、短期記憶への負荷を軽減し、作業ミスの発生率を平均値以下へ抑えている状態です。Mr.オズワルド』
「分かってる。俺に解説してどうする」
『倉庫内の平均移動距離は旧来比で三割減。探索時間は五割減。ため息の頻度は八割減。……ストレス値低下→業務効率上昇、統計的に有意です』
「面白い言葉選びだな」
《《独り言》》を口にするオズワルドを男が怪訝な顔で見ている。その視線を横目に、倉庫の中をゆっくり見渡す。通路ごとに○・△・□・☆の札が吊られ、棚には『1』から『3』までの数字が焼き印されている。
箱に貼り付けられた札には、穂、インゴット、結晶、青い瓶の図柄。ルナが魔法で調合した「消えにくいインク」が鮮明な線を刻んでいた。
入り口近くで、別の新人が札を見上げて首をひねる。
「マリエルさーん、『☆1の結晶』ってここで合ってます?」
「合ってるわよー。星の印は『魔法に使うやつ』って覚えなさい」
マリエルが帳簿から目も上げずに答える。新人は「あ、そうだ」と自分の額を軽く叩き、箱を抱えて駆けていった。
マリエル・ノア。ギルド受付嬢リュミエール・ノアの姉。今日は倉庫係のボルドじいさんの傍らで、倉庫全体の運用を取り仕切っている。
「前は、自分しか場所が分からなかったんだがなあ……」
じいさんは少し寂しげに、それでいてどこか誇らしげにぼやいた。
「今じゃ新人に『○3の印』と言えば、ちゃんと物が出てくる。……楽になったもんだ」
「楽になった分、サボらないでね。ボルじい」
マリエル・ノアが笑いながら釘を刺すと、じいさんは肩をすくめて笑う。ごつごつした指が机の縁をとん、とん、と叩く。その指には、長年この倉庫の番人を務めてきた重みが刻まれているように見えた。
最初に見た倉庫を思い出す。妹から事情を聞いた姉のマリエル・ノアがオズワルドへ声を掛けたのは、時間割を導入して間もなくのことだった。当時の倉庫は、それはもう非効率の集積だった。
怒鳴るボルじい。目的の品を見つけられず、謝罪しながら棚の間を走り回る新人。その全てを捌こうとして、額に青筋を浮かべていたマリエル。
『非効率の是正は、必ずしも速度向上のみを意味しません。中庸は、人間の生存率と満足度を中長期的に上昇させます』
ソローは『ウォールデン』で、物の代価とは、それと引き換えに差し出す人生の量だと記した。
受付で怒鳴られる人間も。棚の間を無駄に走り、頭を下げていた時間も。何十年ものあいだ、この場所を支え続けてきたごつごつとした指も。そのすべてが、彼ら自身の人生から切り取られ、差し出された時間だ。
「人間は最適化するものじゃない」。彼女の言葉を思い出す。
遠くで、次の刻を告げる鐘が二回鳴った。
明日も働く。
おそらく、その次の日も。
せめて、これから差し出される時間は、彼らの人生を僅かでも豊かにする時間であっていい。
「そろそろ飯にするか」




