第3話:すれ違う恋心
「……アイラ。これが君の言う『KPI』とやらに届いているか、確かめてくれ」
公爵邸の図書室。
背後から不意に響いた低く甘い声と同時に、私の視界がクロード公爵の逞しい胸板で覆われた。
彼の手が私の椅子の背もたれと机につき、私は完全に彼の腕の中に閉じ込められる。いわゆる『壁ドン』ならぬ『机ドン』というやつだ。息が触れ合うほどの至近距離、氷色の瞳が熱を帯びて私をじっと見つめている。
(……待って。心臓のBPMが処理落ちしたサーバーみたいに跳ね上がっているわ。これは間違いなく、予期せぬ物理接触による自律神経のバグね)
私は必死にコンサル脳を稼働させ、パニックを起こしかけた脳内をロジックでコーティングする。
現在、アスラン公爵邸における「溺愛偽装プロジェクト」は始動して2週間。私の指導のもと、クロード公爵は『ボサードの法則(物理的距離の近さによる親密度誤認)』や『返報性の原理』を忠実に実行していた。……実行していた、のだが。
「閣下、距離が近すぎますわ。これは対外的な市場価値を高めるための演技指導ですが、今ここには誰もおりません」
「誰もいないから、練習している。アイラ、君はいつも『本番で完璧なパフォーマンスを出すには、日常のコミットメントが不可欠だ』と言っていただろう」
そう言って、クロード公爵は私の耳元に唇を寄せ、ふっと微かな息を吹きかけた。
私の身体がビクンと強張る。彼が不器用に、けれど執着を隠そうともせずに私の髪を一房すくい、愛おしげにキスをした。
(……役者バカなの! ? この人、目標達成への執念が強すぎてKPI設定を履き違えてるわ!)
実はクロード公爵、魔獣ブラン目当てで契約したはずが、初日の夜会で堂々と自分を損切りし、自分にビジネスを仕掛けてきたアイラ自身に、出会ったその瞬間から底なしのガチ恋に落ちていた。しかし、生粋のコンサル脳である私は、彼のこの過剰な糖度を「真面目すぎるビジネスパートナーの過剰な努力」としか認識していない。
「毎朝の『給与』とは別に贈られる最高級の宝石、1日3回の熱烈なアイコンタクト、そしてこの過剰なスキンシップ……。閣下、現在のKPI達成率は優に200%を超えておりますわ。これ以上の過剰投資はコストパフォーマンスに見合いません」
「コストなどどうでもいい。私は……君に対してなら、全財産を溶かしても惜しくないと、最初から言っている」
クロード公爵の氷色の瞳が、切実な色を帯びて揺れる。その顔は、演技とは思えないほど真っ赤に染まっていた。
あまりにも真っ直ぐな全肯定の言葉。前世で「いつでも替えのきく歯車」として酷使され、過労死した私にとって、彼の言葉はあまりにも甘く、脳の報酬系をダイレクトに刺激してくる。
(ダメよ、アイラ。彼はブランに毎日触れる権利のために必死に業務を遂行しているだけ。ビジネスに私情を挟むのはプロ失格だわ……!)
私が「うっ」と言葉に詰まっていると、図書室の扉が静かに開き、白銀の巨大な毛並みがヌッと入ってきた。我が愛獣のブランだ。
ブランは私を囲い込んでいるクロード公爵を一瞥すると、「またやってるよ、この重度の片想い男」と言わんばかりの冷ややかな視線を送った。
「……クゥン」
ブランが呆れたようにあくびをしながら、私の足元にドサリと横たわる。
その瞬間、クロード公爵の『溺愛夫の顔』が、一瞬で『モフモフを渇望する少年の顔』へと切り替わった。
「ブラン……! 今日も、その、毛並みのコンディションは最高だな……」
クロード公爵は少し名残惜しそうにしながらも私からパッと離れると、ブランの前にそろりとひざまずいた。私の演技指導のおかげで、最近では殺気をコントロールできるようになり、ブランも「まあ、触らせてやってもいいぞ」という態度を見せている。
恐る恐る、けれど至福の表情でブランの背中に大きな手を埋めるクロード公爵。
「……素晴らしい。これが、至高のシナジー効果というやつか……」
「閣下、それはただの公私混同ですわ」
彼の一喜一憂する姿に、私の胸の奥がなぜかチクリと痛んだ。
彼が求めているのは私の知識と、ブランのもふもふ。……分かっているはずなのに、なぜ私の心は、この契約の終了を想像すると、こんなにも不快な不協和音を奏でるのだろうか。
──その頃、私たちが順調に資産価値を高めている一方で、私を損切りしたはずの元婚約者・アラン王太子は、自ら破滅のデススパイラルへと足を踏み入れていた。
有能な私(ベルンシュタイン公爵家)という最大の後ろ盾を失った王宮の財政経営は、すでに崩壊の兆しを見せている。それにもかかわらず、彼は新しい愛人に見栄を張るため、とある『実体のない巨大な投資話』に、国庫の金を湯水のように注ぎ込み始めていたのだ。
人間の脳は、一度つぎ込んだコストを惜しみ、さらに泥沼にはまっていく性質がある。
次にアラン王太子が私たちの前に現れる時、彼は完全なる『サンクコストの罠』に囚われ、破産寸前の不良債権と化していることだろう──








