第2話:戦略的提携
「お前……今、その魔獣を……モフって、いただろう」
国中から『氷の死神』と恐れられる筆頭公爵、クロード・フォン・アスランは、地を這うような低い声でそう言った。
その氷色の瞳に宿っているのは、私を八つ裂きにするような殺意ではない。私の背後で「ウインナーまだ?」という顔をしているフェンリル──ブランの、白銀の豊かな毛並みに向けられた、痛いほどの『羨望』だった。
(……待って。この状況、私の市場予測と著しく乖離しているわね)
前世で外資系コンサルタントだった私は、瞬時に脳内のデータシートを書き換える。
クロード公爵。冷酷無比、冷血、人間的な感情を持たない戦闘兵器。それが公の評判だ。しかし、目の前の男の視線、わずかに微振動する指先、そしてブランが動くたびにピクリと動く眉根。これらはすべて、重度の『重度な動物依存症(モフモフ愛好家)』が禁断症状を起こしている時のそれである。
「……はい。我が愛獣のブランですが、それが何か?」
私がブランの首元をわざとらしく強めにモフってみせると、クロード公爵の喉が「ゴクリ」と鳴ったのが聞こえた。
「……それは、伝説の魔獣フェンリルのはずだ。なぜ、人間に、それほど、無防備に、腹を見せている……」
「無条件の全肯定と、適切なツボのマッサージですわ。心理学的アプローチ、つまり『返報性の原理』です。こちらが敵意をゼロにして極上の快感を与えれば、いかに凶暴な魔獣といえど投資対効果を返してくれますの」
私がすらすらと答えると、クロード公爵は苦渋に満ちた表情で、己の端正な顔を大きな手で覆った。
「信じられん……。私は、顔が怖すぎるという理由だけで、我が領地の野良猫にすら全力で逃げられるというのに……っ」
「は?」
「馬からも拒絶され、軍馬には威嚇され、先日など、通りすがりのハムスターに二度見されて気絶された……!」
冷酷公爵が、ものすごい美貌を歪めて絶望している。
どうやら彼は、「圧倒的な強者」というスペックと引き換えに、「あらゆる動物に嫌われる」という致命的なデバフを背負っているらしい。
(なるほど。クロードの潜在的ニーズを完全に把握したわ)
私のコンサル脳が火を噴く。これはビジネスチャンスだ。王太子を損切りしたばかりの私には、強力な社会的後ろ盾が必要だった。そして目の前の男は、資金力・権力ともに国内最高峰。win-winの関係が築ける。
「公爵閣下。お悩みのようですわね。……でしたら、私から一つ、相互の利益を最大化するための『戦略的提携』をご提案させていただいても?」
「てい、けい……?」
「簡単に申し上げます。──私と、契約結婚をしませんこと?」
私の突拍子もない提案に、クロード公爵は目を見開いた。
「結婚だと? 私と? 私は『氷の死神』だぞ? 恐ろしくはないのか」
「リスクヘッジは済んでおりますわ。閣下が本当に恐ろしいのは、動物に嫌われた時の孤独な夜だけでしょう? 私と結婚すれば、このブランに毎日、合法的に、好きなだけ触れ合う権利をライセンス契約として付与いたします」
「毎日……フェンリルを……!?」
クロード公爵の瞳に、かつて戦場でも見せたことがないほどの凄まじい光が宿った。
「さらに、私は閣下が他者に『溺愛夫婦』として振る舞うための『演技指導』も行いますわ。閣下の冷酷すぎるイメージを払拭し、好感度を高めるブランド戦略です。期間は1年間の有期業務委託。いかがかしら?」
クロード公爵はしばし黙祷するように目を閉じ、そして、決然と目を開けた。
「……その契約、受諾する。今すぐ婚姻届を作成しろ。私の全財産の半分を担保にしてもいい」
「話が早くて助かりますわ!」
こうして、婚約破棄されたばかりの悪役令嬢アイラは、国中が恐れる冷酷公爵との「1年間の期間限定・契約結婚」を電撃締結したのだった。
翌日、私はブランと共にアスラン公爵邸へと引っ越しした。
さっそく、公爵邸の広大な応接室で、私はクロード公爵と対面していた。今日から「溺愛偽装プロジェクト」のスタートである。
「では閣下、まずは『ファーストコンタクト』の練習から始めましょう。対外的に私たちは『一目惚れで結ばれた熱烈な恋人同士』という設定です。人間の脳は、接触頻度や物理的距離の近さによって親密度を誤認する『ボサードの法則』があります。さあ、私を愛おしげに見つめ、手を握ってください」
「……あ、ああ。善処する」
クロード公爵が緊張した面持ちで、私の方へ一歩踏み出す。
軍服の擦れる音がやけに大きく聞こえた。彼は私の前にひざまずくと、大きな、温かい手で私の右手を包み込んだ。
(……っ、大きい)
前世を含めてビジネス一筋だった私は、男の人にこんな風に手を握られた経験がない。彼の指先にある剣ダコの感触が、妙にリアルに伝わってきて、心臓の鼓動がわずかに跳ねた。
(いけない。これはただのミラーリングによる信頼構築のプロセスよ。エラーを起こしてはダメ、私の心臓)
「ア、アイラ。君を……心の底から、あい……愛して、いる」
クロード公爵が、低く甘い声で囁いた。
その瞬間、彼の氷色の瞳に、言葉にできないほどの熱い「情熱」が揺らめいたのが見えた。顔が不器用に赤くなっている。
(……え? なにこの演技力。アカデミー賞最優秀主演男優賞ものじゃない? 氷の死神って、実は役者としてのKPI(目標達成率)が異常に高いのかしら!?)
まさか、彼が「ブラン目当て」ではなく、夜会で堂々と立ち回る私自身に、出会ったその瞬間から『マジ恋』しているなど、生粋のコンサル脳である私は1ミリも気づいていなかった。
「素晴らしいですわ、閣下! 演技力200%です! これなら社交界の市場価値も一気に跳ね上がりますわ!」
「……。アイラ、これは、演技、では……」
「お上手ですわ! その『照れ』の演出まで完璧だなんて、私、感動いたしました!」
私の超・合理的なポンコツ発言に、クロード公爵は深く、深いため息をついた。その横で、ブランが「あーあ」という顔で床に突っ伏し、前足で顔を隠していたのだった。
この完璧な偽装プロジェクトの裏で、元婚約者の王太子アランが、自らの愚かさによって底なしの沼へと足を踏み入れつつあることを、この時の私はまだ知る由もなかった──








