第1話:不良債権の損切り
「アイラ・フォン・ベルンシュタイン! 貴様のような薄汚い悪女との婚約は、今この瞬間を以て破棄とする!」
華やかな王宮の夜会、その中央で間抜けな王太子がそう叫んだ瞬間。私の脳内ではファンファーレが鳴り響いていた。
──やった! ついに、やっと、この超大型不良債権を損切りできる!
前世で外資系コンサルタントとして身を粉にして働き、過労死の果てにこの乙女ゲームの悪役令嬢アイラへと転生して幾星霜。私はこの日をどれほど待ち侘びただろうか。
目の前で、浮気相手の男爵令嬢を愛おしげに抱き寄せている王太子・アランは、外見こそ一級品だが中身は完全に「負債」である。プライドばかりが高く、領地経営の知識はゼロ、機嫌の上下で政策を変えるような男と結婚するなど、ドブに全財産を投資するようなものだ。
「......殿下、本気でいらっしゃいますか?」
私はあえて、扇で顔の半分を隠しながら、声を微かに震わせてみせた。完璧な被害者の「演技」だ。周囲の貴族たちがヒソヒソと私を憐れむ、あるいは蔑む視線を送ってくるが、すべては織り込み済みである。
「往生際が悪いぞ、アイラ! エレナへの度重なる嫌がらせの罪、言い逃れできると思うな! 貴様のような傲慢な女は、今すぐこの国から追放してやる!」
冤罪もいいところだが、ここで反論するのは三流のすること。真のコンサルタントは、相手の愚かさをそのまま交渉のレバレッジに変換する。
私はスッと扇を下ろし、計算し尽くされた「絶望と気品が同居する微笑み」を浮かべた。
「......分かりましたわ。殿下がそこまで仰るのなら、私は喜んでこの婚約破棄を受け入れ、国を去りましょう。ただし、殿下」
私は声を潜め、アランの耳元へ近づくように一歩踏み出した。
ここで使うのは、人間の意思決定のバグを突く行動経済学──『損失回避の法則』だ。人間は利益を得る喜びよりも、同等の損失を回避したいという欲求の方が圧倒的に強い。
「今この場で、私に対する『正当な補償と追放の手続き』を確定させなければ、明日の朝にはベルンシュタイン公爵家が黙ってはおりませんわ。そうなれば、殿下の寛大なる名誉と、そちらの可愛らしいエレナ様の社会的立場は完全に『損失』となります。......今すぐここで私を切り捨てることこそ、殿下の傷を最小限に抑える唯一の道ですわ」
「くっ......! お、脅すつもりか!」
「滅相もない。私はただ、殿下のスマートなご決断をサポートしたいだけです。......さあ、こちらへ」
私はドレスの隠しポケットから、あらかじめ用意しておいた魔法契約書と万年筆を滑らかに取り出した。このスピード感こそがロケットスタートの鉄則。相手に考える時間を与えてはならない。
「条件は、私の生家への迷惑料としての金貨五千枚。および、王城の地下牢で持て余されている『あるゴミ資産』の譲渡。これだけで、私は今夜中にこの国を去り、二度と皆様の前に現れないと誓います」
「金貨五千枚だと!? それに地下牢のゴミ資産だと......?」
アランが眉をひそめる。
彼が思い浮かべたのは、最近王宮の騎士団が捕獲したものの、あまりの凶暴さに誰も手を出せず、維持費だけを食いつぶしている「呪われし巨大魔獣・フェンリル」のことだ。
アランにとって、その魔獣は一銭の価値もない「不良在庫」だった。金貨五千枚は手痛いが、公爵家からの報復という巨大な『予測損失』を回避できること、そして厄介な魔獣を押し付けられる利得を天秤にかけ、彼の脳内は見事に誘導された。
「ふん、いいだろう! お前のような悪女には、その薄汚い化け物がお似合いだ! 今すぐサインしてやる!」
ガリガリと音を立てて、アランが契約書にサインを刻む。魔力光が走り、契約は絶対のものとなった。
「交渉成立ですわ。お幸せに、元・婚約者殿」
私はアランに完璧な一礼をすると、泣き崩れるどころか、弾むような足取りで夜会会場を後にした。周囲の貴族たちが「哀れな......」と見送っているが、笑いを噛み殺すのが本当に大変だった。
王城の地下深く。頑丈な魔力鉄の檻の中に、その「資産」はいた。 白銀の美しい毛並み、家一軒ほどもある巨体、そして周囲を威圧する血のような赤い瞳。伝説の狼型魔獣、フェンリルだ。騎士たちは遠巻きに怯え、生肉を投げ入れることすら恐れている。
「グルルルル......っ!!」
私近づくと、地響きのような唸り声が響いた。普通の令嬢なら気絶するだろう。だが、前世から重度のモフモフ愛好家だった私にとって、これはただの天国だった。
「まあ......なんて素晴らしい毛並み! 神資産だわ!」
私は衛兵にアランのサインを見せ、迷わず檻の鍵を開けるとその巨大な前足へと飛び込んだ。
騎士たちが「バカな! 噛み殺されるぞ!」と悲鳴をあげる。
しかし、私は知っている。野生動物や魔獣が威嚇するのは、防衛本能──つまり『未知の存在に対するリスクヘッジ』だ。こちらが敵意ゼロ、かつ圧倒的な親愛を示すことで、相手の警戒の認知不協和を解消できる。
「よしよし、怖かったわね。あんな薄暗いところで放置されて、お腹も空いていたでしょう? もう大丈夫よ、私があなたを完全に全肯定してあげるからね」
私が思い切り首回りの極上な毛並みに顔を埋め、ツボを的確にマッサージすると、フェンリルの身体がビクンと強張った。
「......クゥン」
伝説の魔獣は、まるで子犬のような甘ったれた声を出し、私の顔を巨大な舌でレロレロと舐め回し始めた。完全なる懐柔。実質的な所有権の移転の完了だ。
「ふふ、いい子ね! さあ、私の領地へ行きましょう」
王太子から巻き上げた金貨で最高級の魔導馬車を手配し、私はフェンリルを隣に乗せて夜の街を駆け抜けた。古いしがらみをすべて切り捨て、極上のモフモフと莫大なキャッシュを手に入れた私は、まさに人生の勝者だった。
数日後。私はベルンシュタイン領の静かな森の中で、ブランと名付けたフェンリルの腹に寝そべり、贅沢な読書タイムを満喫していた。これぞスローライフ、これぞ完全なる自己肯定の空間。
だが、その平和は、森の木々を激しく揺らす「圧倒的な威圧感」によって破られた。
ブランが即座に起き上がり、私の前に立ちはだかってガルルと低く唸る。 木立の奥から現れたのは、黒い軍服に身を包んだ、一人の美しい男だった。
夜の闇を溶かしたような漆黒の髪。すべてを見透かすような冷徹な氷色の瞳。その美しい顔立ちからは血の通った温もりが一切感じられず、周囲の空気が物理的に凍りついていくのが分かった。
「氷の死神」──筆頭公爵、クロード・フォン・アスラン。
戦場では一瞬で敵の軍勢を凍土に変え、冷酷無比にして他者を寄せ付けない、この物語の最強にして最恐のヒーロー。なぜ、そんな超大型危険オブジェクトがこんな辺境の領地に?
「......おい、そこの令嬢」
クロード公爵が、国中を震え上がらせる冷徹な声で私を呼んだ。私はごくりと息を呑む。戦闘力的に、今の私とブランでは彼に勝つ確率は極めて低い。コンサルタントとして、最悪のリスクシナリオが脳裏をよぎる。
しかし、彼が私を一瞥した直後、その氷色の瞳が、私の後ろにいるブランの「もふもふの巨体」へと注がれた。
彼の美しい眉が、微かにピクリと動く。
「お前......今、その魔獣を......モフって、いただろう」
「えっ?」
死を覚悟した私に向けられたのは、刃のような殺気ではなく──地を這うような、切実すぎるほどの『羨望』の眼差しだった。








