第85話 泳げない栞
流れるプールや波のプールを満喫した三人は、競泳プールへやって来ていた。
「よーし!」
「泳ごうや!」
凪は勢いよく飛び込み、気持ちよさそうに泳ぎ始める。
「やっぱり夏はプールやな!」
正義も軽く泳ぎながら笑った。
「凪さん、泳ぐの速いですね」
「へへー!」
しかし、泳ぎ終えて振り返ると――。
栞はプールサイドに立ったまま、困ったように笑っていた。
「あれ?」
正義が首を傾げる。
「栞さん、泳がないんですか?」
栞は少し恥ずかしそうに視線を逸らす。
「あの……」
「実は、泳げないんです」
一瞬、正義は目を丸くした。
「えっ」
「栞さんにも、できないことがあったんですね」
栞は少し頬を膨らませる。
「失礼ですね」
「私だって苦手なことくらいあります」
凪は思わず吹き出した。
「あはは!」
「栞にも弱点あったんや!」
栞は照れ笑いを浮かべる。
「昔、一度溺れかけたことがあって……」
「それ以来、どうしても怖くて」
正義は静かに頷いた。
「そういうことでしたか」
少し考えた後、穏やかに微笑む。
「よければ、少し練習してみませんか?」
栞は驚いたように正義を見る。
「桜木君が?」
「はい」
「僕でよければ」
少し迷った後、栞は小さく頷いた。
「……お願いします」
三人は浅い場所へ移動する。
「まずは力を抜いてください」
「水は思ったより身体を浮かせてくれます」
正義はゆっくり説明する。
栞は恐る恐る水へ身体を預けた。
「こ、こうですか?」
「はい」
「大丈夫です」
「僕が支えていますから」
正義は栞の背中へそっと手を添える。
「肩の力を抜いてください」
「呼吸もゆっくりです」
「む、難しいですね……」
少しずつ浮けるようになってきた、その時だった。
「きゃっ!」
栞の足が滑る。
身体がぐらりと傾いた。
「危ない!」
正義は反射的に腕を伸ばす。
倒れそうになった栞の腰を支え、そのまま抱き寄せるような形になった。
「大丈夫ですか!」
「は、はい……」
二人は同時に顔を上げる。
目の前には、お互いの顔。
息遣いまで伝わるほど近かった。
(ち、近いです……)
栞の鼓動が一気に速くなる。
頬はみるみる赤く染まっていく。
一方の正義も動揺していた。
(うわっ……)
(栞さん、近い……)
(い、いや違う!)
(支えただけだ!)
慌てて身体を離そうとする。
「す、すみません!」
「い、いえ!」
二人は同時に一歩下がった。
その様子を見ていた凪は、腕を組みながらにやりと笑う。
「青春やなぁ」
「違います!」
「違います!」
二人の声がぴったり重なった。
凪はお腹を抱えて笑い出す。
「あははは!」
「息ぴったりやん!」
栞は恥ずかしそうに俯き、正義は照れ隠しに咳払いをした。
「……練習、続けますか」
「は、はい」
先ほどまでより少しぎこちない空気になりながらも、二人は再び練習を始める。
正義の励ましを受けながら、栞は少しずつ水へ身体を預けられるようになっていった。
「できました!」
ほんの数秒だったが、自分の力で浮くことができた。
栞は子どものように嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます、桜木君」
その笑顔を見て、正義も自然と微笑んだ。
「いえ」
「栞さんが頑張ったからですよ」
夏の日差しが水面をきらきらと照らす。
泳ぎの練習とともに、二人の距離もまた、ほんの少しだけ近付いた一日だった。




