第50話 走れなくなった日
夕暮れ。
三人は部室を出て帰り道を歩いていた。
住宅街を抜ける坂道。
夏の風が頬を撫でていく。
しばらく誰も話さなかった。
正義の過去。
栞の過去。
二人の話を聞き終えたばかりだった。
やがて。
凪が照れくさそうに笑う。
「なんや」
「うちだけ話してへんな」
栞が首を横に振る。
「無理に話さなくてもいいんですよ」
「いや」
凪は笑った。
「ここまで聞いたら、うちだけ黙っとるんもずるいやろ」
そう言って夕焼け空を見上げる。
「うちな」
「小学校の頃から心臓が悪かってん」
正義と栞は黙って耳を傾ける。
「病院にはよう通っとった」
「薬も飲んどったし」
「運動も無理したらあかんって言われとった」
それでも。
「走るんが大好きやった」
凪は笑う。
「運動会は毎回楽しみやったし」
「かけっこは絶対負けたないって思っとった」
医師とも相談を重ねながら。
家族にも支えられながら。
無理をしない範囲で走り続けてきた。
だから。
中学校へ入学した時。
迷わず陸上部へ入った。
「毎日楽しかった」
朝練。
放課後の練習。
休日の記録会。
苦しい練習も嫌ではなかった。
少しずつタイムも縮まっていく。
「県大会も夢やなくなってきとった」
もっと速くなりたい。
もっと走りたい。
それだけを考えていた。
しかし。
その夢は突然止まる。
「定期検査の日やった」
病院。
診察室。
医師は検査結果を見つめたまま静かに言った。
『病状が進行しています』
『これ以上競技を続けるのは危険です』
頭が真っ白になった。
「うち、普通に走れとったんよ」
苦しくもなかった。
タイムも伸びていた。
だから。
どうしても受け入れられなかった。
「先生に何回もお願いした」
『もう少しだけ走らせてください』
『県大会だけでも』
けれど。
答えは変わらなかった。
『命の方が大切です』
その一言で。
夢は終わった。
「部活辞める日な」
凪は苦笑する。
「先輩も先生も泣いてくれてん」
「うちだけ笑っとった」
栞は驚いた。
「笑っていたんですか?」
「心配かけたなかったから」
凪は少し照れ笑いを浮かべる。
『応援行くわ!』
『みんな頑張ってな!』
最後まで笑顔だった。
誰にも本音は言わなかった。
少し沈黙が流れる。
やがて。
凪はぽつりと呟く。
「ほんまはな」
その声は、とても小さかった。
「まだ走りたかった」
夕焼け空を見上げたまま続ける。
「なんでうちなんやろ」
「何回も思った」
「病気なんか嫌やって」
初めてだった。
凪が弱音を口にしたのは。
栞は静かに拳を握る。
正義も何も言えなかった。
体育祭の日。
リレーを断り続けた理由。
走る姿を見るたびに、少しだけ寂しそうだった理由。
ようやく分かった。
凪は走ることを嫌いになったわけではない。
誰よりも好きだったからこそ。
諦めるしかなかったのだ。
凪は照れ隠しのように笑う。
「なんや」
「湿っぽい話になってもうたな」
正義は静かに首を横へ振る。
「聞けて良かったです」
栞も優しく微笑む。
「話してくれてありがとうございます」
凪は照れくさそうに頭を掻いた。
「今日はみんな真面目やなぁ」
三人は思わず笑う。
夕暮れの帰り道。
それぞれが抱えてきた傷を知った。
だからこそ。
三人はもう、ただの部活仲間ではなかった。
本当の意味で支え合える仲間になっていた。




