第46話 裁判官の息子
放課後。
エンジェル部の部室には静かな空気が流れていた。
窓の外では運動部の掛け声が聞こえる。
夕日が差し込み、室内を赤く染めていた。
昨日の話の続きだった。
栞も凪も気付いている。
正義が何かを隠していることを。
そして。
それが決して軽い話ではないことを。
正義は窓際の席で黙っていた。
本を開いている。
だが読んではいない。
栞はそっと口を開いた。
「昨日の話ですけど」
正義は視線を上げない。
「何ですか」
「無理にとは言いません」
「でも」
栞は少しだけ言葉を選ぶ。
「もし話せるなら聞かせてください」
部室が静まる。
凪も何も言わない。
正義はしばらく黙っていた。
やがて。
小さくため息を吐く。
「大した話じゃありませんよ」
そう言いながら本を閉じた。
「父が裁判官だったんです」
凪が目を丸くする。
「裁判官?」
「はい」
正義は頷いた。
「中学の頃の話です」
そして静かに語り始めた。
当時。
全国ニュースになるような殺人事件があった。
毎日のように報道される大事件だった。
テレビも新聞もその話題ばかり。
やがて一人の男が逮捕された。
世間は事件解決だと喜んだ。
警察も検察もそう発表した。
誰も疑わなかった。
だが。
「実際は冤罪でした」
栞と凪が息を呑む。
「監視カメラ映像がありました」
「買い物のレシートもありました」
「複数の証言もあった」
「被告人には明確なアリバイがあったんです」
本来なら犯人になりようがない。
それほどはっきりしていた。
「でも事件は大きくなり過ぎていた」
正義は窓の外を見る。
「警察も検察も後に引けなかったんでしょう」
捜査の誤り。
組織の責任。
世論への影響。
様々な事情があった。
そして。
「父が裁判長を務めることになりました」
裁判は長く続いた。
証拠。
証言。
記録。
一つずつ確認していく。
そして判決の日。
「父は無罪判決を出しました」
それは感情ではなく事実に基づいた判決だった。
裁判官として当然の判断。
法に従った結論。
本来なら。
それで終わるはずだった。
「でも終わらなかった」
正義は苦笑した。
少しだけ寂しそうな笑みだった。
ニュース番組。
ワイドショー。
週刊誌。
連日のように父の名前が取り上げられた。
『犯罪者を逃がした裁判官』
『被害者を裏切った判決』
『司法への不信』
そんな言葉が飛び交った。
「世間は無罪判決を受け入れませんでした」
正義は淡々と語る。
「犯人だと思い込んでいたから」
部室が静まり返る。
凪も栞も何も言えない。
「やがて家族にも飛び火しました」
学校で噂になる。
裁判官の息子。
犯罪者の味方。
好き勝手なことを言われた。
「友達だと思っていた奴も離れていきました」
正義は肩を竦める。
「面倒事に関わりたくなかったんでしょうね」
その言い方は妙に大人びていた。
中学生だった当時の自分を語っているはずなのに。
「そのうち嫌がらせが始まりました」
「暴力もありました」
「結局」
一度言葉を切る。
「転校しました」
短い言葉だった。
けれど。
その一言の重さは十分伝わった。
部室には沈黙が落ちる。
栞は胸の奥が苦しくなった。
凪も同じだった。
今まで知らなかった。
桜木正義という人間が抱えていたものを。
正義は窓の外へ目を向ける。
夕日がゆっくり沈み始めていた。
「まあ」
小さく呟く。
「そんな話です」
そう言って笑う。
だが。
二人には分かった。
それが過去の話ではないことを。
今もなお。
彼の中に残り続けている傷なのだと。
誰も言葉を見つけられないまま。
部室には静かな沈黙だけが残っていた。




