第32話 ありがとう
体育祭が終わった日の帰り道。
夕焼けが街を橙色に染めていた。
昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
生徒たちはそれぞれ帰路につき、道行く人影もまばらである。
正義、栞、凪の三人も並んで歩いていた。
「疲れたなぁ……」
凪が大きく伸びをする。
「一日中動いとった気がする」
「実際動いてましたよ」
栞が笑う。
「日向夏さん、ずっと走り回ってましたし」
「走るんは得意やからな」
凪は冗談めかして言った。
三人は思わず顔を見合わせる。
そして小さく笑った。
もう気まずくなることはなかった。
「でも楽しかったわ」
凪が空を見上げる。
「ほんまにな」
春。
陸上部を辞めたばかりの頃。
グラウンドを見るだけで苦しかった。
走っている部員たちを見るのが辛かった。
自分だけ取り残されたような気がしていた。
体育祭の話題が出るたびに憂鬱だった。
本当は走りたかったからだ。
だから。
体育祭の種目決めが始まった時も怖かった。
リレーの話が出た時も苦しかった。
病気のことを隠していた自分もいた。
だが今は違う。
走れなくても。
リレーに出なくても。
自分の居場所はあった。
応援した。
手伝った。
クラスのみんなと笑った。
それだけで十分だった。
「良かったですね」
栞が優しく微笑む。
「うん」
凪も笑った。
そして少しだけ真面目な顔になる。
「なあ」
「何ですか?」
正義が答える。
凪は少しだけ言葉を探した。
そして。
「ありがとう」
そう言った。
正義が足を止める。
「何がですか」
「色々や」
凪は笑う。
「病気のことも」
「体育祭のことも」
「勉強会も」
「全部や」
あの日。
正義が声を上げなければ。
自分は無理をしていたかもしれない。
クラスに本音を話すこともなかったかもしれない。
体育祭も楽しめなかったかもしれない。
だから。
本当に感謝していた。
「別に」
正義は短く答える。
いつもの返事だった。
凪は思わず吹き出す。
「やっぱそれ言うんやな」
「事実です」
「素直ちゃうなぁ」
「余計なお世話です」
正義は少しだけ視線を逸らした。
凪には分かった。
栞にも分かった。
照れているのだ。
「正義君らしいですね」
栞が微笑む。
「そうですか」
「そうですよ」
栞は嬉しそうだった。
勉強会。
体育祭。
リレー騒動。
喧嘩。
仲直り。
色々なことがあった。
けれど、その全部が無駄ではなかった。
少し前まで。
正義は一人だった。
凪は悩みを抱え込んでいた。
栞は一人でエンジェル部を続けていた。
それが今では違う。
三人で笑っている。
三人で歩いている。
それが何だか嬉しかった。
夕焼けが三人を照らしている。
長く伸びた影が並んでいた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
三人の距離は近付いている。
そして。
エンジェル部の物語もまた、次の季節へ向かって進み始めていたのだった。




