第21話 断れない空気
体育祭の種目決めが始まってから数日。
二年二組では、リレーのメンバー選出が大詰めを迎えていた。
だが。
候補者は最初からほとんど決まっていた。
「やっぱ日向夏だろ」
「一番速いしな」
「アンカー頼むって」
昼休み。
教室のあちこちからそんな声が聞こえてくる。
その度に。
凪は笑顔を作っていた。
「いやいや」
「そんな期待されても困るて」
「謙遜するなって」
「元陸上部のエースだろ?」
悪意はない。
本当に期待しているだけだ。
だからこそ断りづらい。
凪は曖昧に笑う。
「昔の話や」
「今はちゃうて」
「でも速いじゃん」
「頼むよ」
話はそこで終わらない。
次の休み時間も。
昼休みも。
放課後も。
誰かしらが声を掛けてくる。
人気者だからこそ。
誰も凪が断るとは思っていなかった。
そして凪自身も。
断ることができなかった。
放課後。
エンジェル部の部室。
凪は机へ突っ伏していた。
「しんど……」
「大丈夫ですか?」
栞が心配そうに尋ねる。
「大丈夫やない」
即答だった。
「そこまでですか?」
「そこまでや」
凪は力なく答えた。
栞は困ったような顔になる。
ここ数日。
明らかに様子がおかしい。
リレーの話になると笑顔が硬くなる。
無理をしているように見える。
だが理由は分からない。
「日向夏さん」
「ん?」
「本当にリレー嫌なんですか?」
凪は少しだけ固まった。
そして。
「別に嫌やないで」
笑った。
いつもの笑顔だった。
だが。
栞にはもう分かっていた。
それが本心ではないことくらい。
「そうですか」
栞はそれ以上聞かなかった。
聞けなかった。
凪が話したくないのなら待つしかない。
一方。
窓際では正義が本を読んでいた。
正確には読んでいるふりだった。
耳は二人の会話を聞いている。
そして。
少しずつ苛立っていた。
嫌なら断ればいい。
無理なら無理だと言えばいい。
そう思う。
だが。
凪がそういう人間ではないことも知っていた。
空気を壊したくない。
期待を裏切りたくない。
だから無理をする。
だから笑う。
だから余計に腹が立つ。
その時だった。
部室の扉が開く。
「日向夏いる?」
二年二組の男子生徒だった。
「何や?」
「リレーの件」
凪の表情が僅かに曇る。
男子は気付かない。
「みんな日向夏で決まりだろって言ってるからさ」
「明日のホームルームで決めるらしい」
「返事よろしくな」
気軽な口調だった。
悪意はない。
だが。
凪の肩が僅かに強張った。
「……分かった」
小さな声だった。
「まだ決まってないですよね」
不意に正義が口を開いた。
男子が振り返る。
「え?」
「リレーのメンバーです」
「まだ正式決定じゃないですよね」
「まあ、そうだけど」
「だったら決まってからでいいでしょう」
静かな声だった。
だが少し冷たい。
男子は困ったように笑う。
「いや、でもみんな日向夏で――」
「決まってからでいいです」
正義は繰り返した。
男子は気まずそうに頭を掻く。
「そ、そうだな」
そう言って部室を出て行った。
扉が閉まる。
静寂が訪れた。
「正義」
凪が言う。
「何ですか」
「ちょっと怖かったで」
「そうですか」
「そうや」
凪は苦笑した。
だが。
その笑顔は少しだけ救われたようにも見えた。
栞は二人を見比べる。
やはり何かある。
正義は理由を知っている。
凪は隠している。
自分だけが知らない。
そんな気がした。
窓の外では陸上部が練習している。
夕日に照らされたグラウンド。
走る生徒たち。
その光景を見つめながら。
凪は小さく呟いた。
「走りたいなぁ……」
本当に小さな声だった。
栞には聞こえない。
だが。
正義には聞こえていた。
だからこそ。
胸の奥の苛立ちは、ますます大きくなっていく。
そして翌日。
ホームルームでリレーのメンバーが正式に決まる。
日向夏凪に残された時間は、もうほとんどなかった。




