第20話 元エース
体育祭の種目決めが行われた日の昼休み。
二年二組の教室はいつも以上に騒がしかった。
話題は当然、体育祭である。
「リレー楽しみだな」
「今年は優勝狙えるんじゃないか?」
「うちのクラス結構強そうだよな」
そんな会話が教室のあちこちで交わされていた。
そして。
その中心にいるのは一人だった。
「日向夏!」
「リレー頼むな!」
男子生徒が笑いながら声を掛ける。
「今年は勝てそうだよな」
「元陸上部だし」
「アンカー確定だろ」
周囲も次々と頷く。
誰も疑っていない。
誰も迷っていない。
当然のように凪の名前が挙がる。
「いやいや」
凪は苦笑した。
「まだ決まったわけやないし」
「決まりみたいなもんだろ」
「日向夏より速い人いないし」
「去年の大会も凄かったじゃん」
その言葉に。
凪の笑顔がほんの少しだけ固まった。
去年。
その単語だけで胸の奥が痛くなる。
だが誰も気付かない。
凪はすぐに笑顔を作った。
「買い被り過ぎやて」
「謙遜するなって」
周囲は楽しそうに笑う。
悪意はない。
本当に期待しているだけだ。
だからこそ断りづらい。
やがてクラスメイト達は満足したように席へ戻っていった。
凪は小さく息を吐く。
「大人気ですね」
栞が感心したように言った。
「人気者は大変です」
「人気やない」
凪は苦笑する。
「期待されとるだけや」
「それも凄いことですよ」
栞は素直に言った。
だが。
凪は曖昧に笑うだけだった。
「そうとも限らんのや」
小さな声だった。
栞は首を傾げる。
何かがおかしい。
それだけは分かる。
だが理由までは分からない。
一方。
窓際では正義が本を読んでいた。
いや。
正確には読んでいるふりだった。
耳にはさっきから会話が入ってくる。
そして。
少しずつ苛立っていた。
クラスメイト達にではない。
何も知らないのだから当然だ。
腹が立つのは凪の方だった。
嫌なら断ればいい。
無理なら無理と言えばいい。
そう思う。
だが。
凪がそういう人間ではないことも知っていた。
空気を壊したくない。
期待を裏切りたくない。
だから無理をする。
だから笑う。
だから余計に腹が立つ。
「桜木君?」
栞が声を掛ける。
「どうしたんですか?」
「別に」
短い返事だった。
だが視線は窓の外へ向いていた。
グラウンド。
そこでは陸上部が練習している。
短距離走。
スタート練習。
リレーのバトンパス。
大会を控えた真剣な練習風景だった。
そして。
凪もまた、その光景を見ていた。
自然と。
無意識に。
目で追っていた。
「……」
その横顔を見て。
正義は確信する。
やっぱり好きなのだ。
今でも。
誰よりも。
陸上が好きなのだ。
走りたいのだ。
だからこそ辛い。
だからこそ苦しい。
その気持ちが痛いほど伝わってきた。
放課後。
三人はいつものようにエンジェル部の部室へ集まっていた。
だが話題はやはり体育祭だった。
「リレー、人気ですね」
栞が言う。
凪は机へ突っ伏した。
「勘弁してほしいわ……」
「そんなに嫌なんですか?」
「まあな」
珍しく歯切れが悪い。
栞は心配そうな顔になる。
正義は黙ったままだ。
窓の外から陸上部の掛け声が聞こえる。
その音に反応するように。
凪の視線が再びグラウンドへ向いた。
ほんの一瞬。
その表情には笑顔がなかった。
寂しさと。
未練と。
諦めきれない想いだけが残っていた。
元陸上部。
元エース。
皆はそう呼ぶ。
だが。
正義には分かる。
日向夏凪は過去形ではない。
今でも陸上が好きなのだ。
今でも走りたいのだ。
だからこそ。
この問題はまだ終わらない。
そんな気がしていた。




