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第11話 本当の理由

 放課後。


 その日、栞は部室にいなかった。


 珍しいことである。


「栞は?」


 凪が首を傾げる。


 正義は机の上に置かれたメモを見る。


 綺麗な字で書かれていた。


『野球部のお手伝いへ行っています』


「ああ」


 正義は頷いた。


「野球部らしいです」


「また人助けか」


 凪が苦笑する。


 エンジェル部の活動以外でも、栞はよく他の部活や委員会の手伝いをしていた。


 人手不足だと聞けば顔を出す。


 困っている人がいれば放っておけない。


 実に栞らしい。


「松田先生に頼まれたんやろな」


「でしょうね」


「便利に使われとる気もするけど」


「本人が喜んでやってるので問題ないんじゃないですか」


「それもそうやな」


 凪は笑った。


 そして椅子へ腰掛ける。


 いつもなら三人いる部室。


 今日は二人だけだった。


 静かだった。


 窓の外から聞こえる運動部の掛け声だけが響いている。


「珍しいな」


 凪がぽつりと呟く。


「何がですか」


「正義と二人」


 確かにそうだった。


 凪がエンジェル部へ来てから初めてかもしれない。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて。


 凪がぽつりと口を開いた。


「昨日の話やけど」


 正義は顔を上げる。


「陸上の話ですか」


「せや」


 凪は窓の外を見る。


 グラウンドでは陸上部が練習していた。


「好きやで」


 小さな声だった。


「今でもな」


 正義は何も言わない。


 ただ続きを待つ。


 凪は少し笑った。


「辞めたのにな」


「未練たらたらや」


 その笑顔はどこか寂しそうだった。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて。


 凪は静かに口を開いた。


「心臓病なんよ」


 正義は黙って聞いている。


「小さい頃からな」


「ずっと持っとる」


 風が吹く。


 カーテンが揺れた。


「昔はそこまで酷くなかったんや」


「薬飲みながら走っとった」


「先生にも親にも反対されたけど」


 凪は苦笑する。


「それでも走りたかったから」


 陸上が好きだった。


 走ることが好きだった。


 だから続けた。


 無理をしてでも。


 ずっと。


「でも去年」


 凪の声が少しだけ小さくなる。


「倒れたんや」


 正義は黙ったままだった。


「大会前の練習でな」


「病院運ばれて」


「先生に言われた」


 凪は視線を落とす。


「もう無理やって」


 静かな声だった。


 けれど。


 その一言だけで十分だった。


「激しい運動は禁止」


「競技レベルの陸上は禁止」


「続けたら危険」


 だから。


「辞めた」


 凪は短く言った。


 簡単な言葉だった。


 だが。


 そこへ辿り着くまでにどれだけ苦しんだのかは想像できる。


「好きやったんや」


 凪は呟く。


「ほんまに好きやった」


 朝練。


 放課後練習。


 大会。


 仲間。


 全部。


「続けたかった」


 その言葉だけは少し震えていた。


「最後まで走りたかった」


 部室に沈黙が落ちる。


 夕日が窓から差し込んでいた。


 凪は苦笑する。


「何やろな」


「今さら言うても仕方ないんやけど」


 正義は少し考えた。


 そして静かに言う。


「好きだったんですね」


「……うん」


「じゃあ辛かったでしょうね」


 それだけだった。


 慰めもない。


 励ましもない。


 可哀想だとも言わない。


 ただ。


 当たり前のことを確認しただけだった。


 凪は目を丸くする。


「それだけ?」


「それだけです」


「もっとこう」


「元気出せとか」


「頑張ったなとか」


「ないん?」


「ないです」


 即答だった。


 凪は思わず吹き出した。


「ほんま変な奴やな」


「よく言われます」


 正義は肩を竦める。


「どうにもならないことなら」


「仕方ないでしょう」


 昨日と同じ言葉だった。


 凪は小さく笑う。


「昨日も言うてたな」


「はい」


 窓の外では陸上部が走っている。


 胸はまだ痛む。


 悔しさも消えていない。


 それでも。


 誰かに話したのは久しぶりだった。


 同情されなかった。


 可哀想だとも言われなかった。


 だから逆に楽だった。


「ありがとな」


 凪が言う。


「何がですか」


「聞いてくれて」


 正義は少し考える。


 そして。


「エンジェル部ですから」


 そう答えた。


 一瞬。


 凪は目を丸くした。


 そして盛大に吹き出す。


「それ栞の受け売りやん!」


「うるさい」


 正義は少しだけ顔を逸らした。


 凪は笑う。


 本当に久しぶりに。


 心の底から笑った。


 部室に笑い声が響く。


 夕日はゆっくりと沈み始めていた。


 この日。


 日向夏凪は初めて本当の理由を打ち明けた。


 そして正義もまた。


 少しだけ彼女のことを知ったのだった。

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