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第10話 好きなんだろ

 数日後。


 体育の授業だった。


 初夏の日差しがグラウンドへ降り注いでいる。


 正義たちは持久走を終え、木陰で休憩していた。


「暑っ……」


 凪が地面へ座り込む。


「死ぬ……」


「大袈裟ですね」


 栞が苦笑した。


「栞は元気過ぎるねん」


「何でそんな平然としてるん?」


「慣れてますから」


「優等生怖い」


 凪は大袈裟に肩を震わせる。


 栞は楽しそうに笑った。


 そんな二人を眺めながら、正義は何気なくグラウンドへ目を向けた。


 陸上部が練習している。


 短距離走。


 スタート練習。


 リレーのバトンパス。


 大会が近いのだろう。


 顧問の指示が遠くから聞こえてくる。


 その時だった。


 隣にいた凪が不意に静かになる。


 正義は横目で見た。


 凪はグラウンドを見つめていた。


 真っ直ぐに。


 ただ真っ直ぐに。


 走る陸上部員たちの姿を追っている。


 その目は楽しそうだった。


 懐かしそうだった。


 そして。


 少しだけ寂しそうだった。


「日向夏さん?」


 栞が声を掛ける。


「え?」


 凪が振り返った。


「どうかしたんですか?」


「何でもないで」


 凪は笑った。


 いつもの笑顔だった。


 だが正義は思う。


 嘘だ。


 何でもない顔じゃない。


 あんな顔をする人間を知っている。


 好きなのに諦めなければならなかった時の顔だ。


 もっとも。


 その場では何も言わなかった。


 聞いたところで答えないだろう。


 そう思ったからだ。


 授業が終わる。


 放課後。


 勉強会も終わり、三人は校門を出た。


 途中で栞が駅へ向かう。


「それではまた明日ですね」


「またな」


「またね」


 栞が手を振りながら去っていく。


 残ったのは正義と凪だった。


 帰り道は途中まで同じである。


 しばらく二人で歩いた。


 会話はない。


 沈黙だけが続く。


 やがて。


 正義が口を開いた。


「なあ」


「何や?」


「お前」


 正義は前を向いたまま言う。


「陸上好きだろ」


 凪の足が止まった。


 正義も立ち止まる。


 振り返ると、凪は驚いた顔をしていた。


「何やねん急に」


「別に」


 正義は肩を竦める。


「好きなんだろ」


「陸上」


 凪は苦笑した。


「好きやったら何やねん」


「別に」


 正義は同じ言葉を返す。


「ただ」


 一度言葉を切る。


「辞めたくて辞めた人間の顔じゃない」


 沈黙。


 風が吹いた。


 凪は視線を逸らす。


「そんな顔しとった?」


「してた」


「ふーん」


 凪は小さく笑った。


 誤魔化そうとしている。


 だが正義は確信していた。


 陸上の話をしている時。


 大会の話をしている時。


 練習風景を見ている時。


 凪は本当に楽しそうだった。


 好きなのだ。


 今でも。


「何で辞めたん?」


 正義は聞いた。


 凪は少しだけ黙る。


 そして首を横に振った。


「秘密や」


「そうですか」


 正義はあっさり引き下がった。


 凪は意外そうな顔をする。


「聞かへんの?」


「嫌ならいいです」


「……変な奴やな」


 凪は苦笑した。


 正義は何も答えない。


 聞き出したいわけじゃない。


 ただ。


 嘘だけは嫌いだった。


 二人は再び歩き出す。


 夕暮れの道。


 長く伸びた影が並んでいる。


「なあ」


 しばらくして凪が口を開く。


「何ですか」


「もしやで?」


「はい」


「ウチが陸上好きやったとして」


「はい」


「それでも走れへん理由があったらどうする?」


 正義は少しだけ考えた。


 そして答える。


「仕方ないんじゃないですか」


 凪が立ち止まる。


「仕方ない?」


「どうにもならないことなら」


「諦めるしかないでしょう」


 正義はそう言った。


 冷たい言葉にも聞こえる。


 だが。


 その声は静かだった。


 感情ではなく、事実を受け入れるような響きがあった。


「……そっか」


 凪は小さく笑う。


 その笑顔は少しだけ寂しそうだった。


「でも」


 正義が続ける。


 凪が顔を上げる。


「好きなものまで嫌いになる必要はないと思います」


 一瞬。


 凪が目を見開いた。


「走れなくても」


「好きなら好きでいいでしょう」


 正義は前を向く。


「別に誰かの許可がいるわけじゃない」


 それだけ言うと歩き出した。


 凪はその背中を見つめる。


 しばらく動かなかった。


 やがて。


 小さく笑う。


「ほんま」


「変な奴やな」


 その声は少しだけ明るかった。


 正義の中には確かな確信が残る。


 日向夏凪は陸上が好きだ。


 今でも。


 誰よりも。


 そして。


 辞めたくて辞めたわけではない。


 それだけは間違いなかった。


 夕暮れの空の下。


 二人の影はゆっくりと家路へ伸びていく。


 凪が本当の理由を話す日も、そう遠くはなかった。

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