第9話 元陸上部
勉強会が始まって一週間ほどが過ぎていた。
放課後。
今日もエンジェル部の部室には三人の姿がある。
「終わった……」
凪が机へ突っ伏した。
「まだ半分です」
栞が優しく告げる。
「鬼や……」
「優しい方ですよ」
「正義よりはな」
凪が恨めしそうに隣を見る。
正義は問題集をめくりながら答えた。
「比較対象がおかしい」
「自覚あるんや」
「あります」
即答だった。
凪は深いため息を吐く。
「栞みたいに優しく教えてくれへん?」
「効率が悪いので」
「出た」
「効率厨」
「誰がですか」
「お前や」
そんな他愛もないやり取りをしていた時だった。
窓の外から歓声が聞こえてきた。
三人は自然と視線を向ける。
グラウンドでは陸上部が練習していた。
短距離走。
リレー練習。
顧問の笛の音。
夕日に照らされたトラックを、生徒たちが全力で駆け抜けていく。
「あー」
凪が懐かしそうな声を漏らした。
「もうそんな時期か」
「何かあるんですか?」
栞が尋ねる。
「地区大会やな」
凪は窓の外を眺めながら答えた。
「今くらいから練習めっちゃ増えるねん」
「リレーなんか毎日やで」
その口調は自然だった。
どこか楽しそうですらある。
「日向夏さん、詳しいですね」
「まあ元陸上部やし」
凪は笑う。
そして。
そこから話が止まらなくなった。
「今年やったら男子は城南が強いな」
「去年のエース残っとるし」
「女子は北陵や」
「一年に速い子入ったらしい」
「あとリレーはな」
「足速いだけやと勝てへんねん」
「バトンの受け渡しがめっちゃ大事で――」
フォーム。
スタート。
大会の有力選手。
練習方法。
レース展開。
凪は次々と話していく。
まるで別人だった。
勉強の話をしている時とは違う。
言葉が淀まない。
表情も明るい。
目まで輝いていた。
栞も感心したように聞いている。
「本当に好きなんですね」
「好きやで」
凪は即答した。
「走るんも好きやし」
「見るんも好きや」
「大会とかめっちゃおもろいで」
その笑顔は自然だった。
好きなことを語る人間の顔だった。
だが。
正義は少し引っ掛かる。
日向夏凪。
元陸上部のエース。
突然の退部。
学園では有名な話だった。
理由は誰も知らない。
顧問と揉めた。
怪我をした。
やる気を失った。
様々な噂が流れていた。
だが。
今の凪を見ていると、そのどれもしっくり来ない。
少なくとも。
陸上を嫌いになった人間には見えなかった。
「なあ」
正義が口を開く。
「何や?」
「陸上好きなんですね」
一瞬。
凪の表情が止まった。
本当に一瞬だった。
だが正義は見逃さなかった。
「好きやで」
凪はすぐに笑う。
「好きやったらあかんの?」
「別に」
正義は短く答える。
それ以上は聞かなかった。
聞く理由もない。
他人の事情だ。
だが。
違和感だけは残った。
窓の外。
グラウンドでは陸上部員たちが走っている。
その姿を見つめる凪の視線は、少しだけ長かった。
まるで何かを追い掛けるように。
何かを懐かしむように。
そんな目だった。
「日向夏さん?」
栞が呼ぶ。
「ん?」
凪は我に返る。
「何でもないで」
そう言って笑った。
いつもの明るい笑顔だった。
けれど。
正義の中には小さな疑問が残る。
陸上が好き。
それは間違いない。
好きだからこそ、詳しい。
好きだからこそ、楽しそうに話す。
それなのに辞めた。
そこには何か理由がある。
そんな気がした。
もっとも。
今の正義は深く追及するつもりはなかった。
ただ。
窓の外のグラウンドを見つめる凪の横顔だけが、なぜか妙に印象に残った。
その違和感は。
翌日、思いがけない形で答えへ近付くことになる。




