第7話 帰り道と自覚
読書週間の準備は、少しずつ形になっていった。
今回の企画はスタンプラリー。
本棚毎にチェックポイントを作って、本を読むたびにスタンプを押すという、単純で分かりやすいものだった。
机の上には、スタンプラリーの台紙と、景品のメモが並んでいる。
しおり、ステッカー、賞状。
中学生が用意できる景品として、二人で工夫を凝らした。
「これ、もう少し数ほしいですね」
神崎がメモを見ながら言う。
「だな」
晃は短く返して、段ボールを持ち上げた。
図書室の空気は、放課後の少しだけ柔らかい静けさに包まれている。
窓の外は、夕方の色に変わり始めていた。
二人で作業する時間は、特別な会話があるわけではない。
必要なことを、必要なだけ言う。
それだけなのに、なぜかやりやすい。
「このスタンプ、もう一種類増やしたほうがいいかもですね」
「理由は?」
「こっちの棚もスタンプラリーの対象にしてもいいかと」
「……なるほど」
晃は小さく頷く。
神崎の提案は、いつも抜けがない。
感覚ではなく、ちゃんと整理されている。
そのことに気づいてから、晃は少しだけ考え方が変わっていた。
——こいつ、ちゃんと見てる。
そう思うことが増えた。
作業が一区切りついた頃、時計を見ると、最終下校時刻が迫っていた。
「そろそろ片付けるか」
「はい」
机の上を整え、スタンプ台を棚に戻す。
戸締りを確認して、電気を消す。
最後に鍵を閉めたのは神崎だった。
「職員室へ鍵返してきます。じゃあ……」
そう言って、神崎は小さく頭を下げて、暗くなり始めた廊下へ小走りに消えていく。
静かな廊下に、階段を降りる足音が響く。晃も追いかけるように階段を降りる。
下駄箱で靴を履き替え、昇降口のドアにもたれかかって待つ。
理由はない。
一緒に帰ろうと話したわけではない。
ただ、その方が自然だったから。
しばらくして、廊下から足音が近づく。
神崎が戻ってくる。
「すみません、先に帰ってると思ってました」
少し驚いた表情で、慌てて靴に履き替える。
「職員室、思ったより時間かかってしまって……」
その言葉に、晃は軽く首を振った。
「別に、気にしてない……待ちたいから、待ってただけ。」
自分でも少し変な言い方だと思った。
「……女の子一人で帰るには、もう暗いし」と取って付けたような言い訳をする。
神崎は一瞬だけ黙って、それから小さく笑う。
「ありがとうございます」
「いい」
短く返す。
神崎は鞄を肩にかけて歩き出す。
二人で校門へ向かって歩く。
外はもう薄暗くなっていた。
校舎の影が長く伸びている。
神崎が少しだけ笑う。
「でも、先輩の家、すぐそこですよね」
その言葉に、晃は一瞬だけ言葉を失う。
——確かにそうだ。
言い訳になっていない。
「……家まで送る」
気づけば、そう言っていた。
神崎は少しだけ目を丸くして、それから静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
校門の外に出ると、夜の入り口のような風が頬に当たった。
晃は神崎の横を歩きながら、ふと思う。
——さっきから、何やってんだ俺。
でも、足は止まらなかった。
隣を歩く神崎の気配だけが、やけに近く感じていた。
神崎の家へ向かう道は、何度も通ったことがあった。
この先にコンビニがあって、その先に図書館がある。
なのに、初めて通るような不思議な感覚。
校門を出てからしばらく、言葉はなかった。
夜の手前の空は、まだ少しだけ明るさを残している。
街灯がひとつ、またひとつと灯り始める。
その間を歩くと、影が長く伸びては消えた。
神崎が少しだけ前を歩き、晃はその半歩後ろをついていく。
その距離は、近いようで遠い。
遠いようで、妙に落ち着く距離だった。
曲がり角に差し掛かったとき、
不意に、指先が触れた。
「……っ」
どちらともなく、小さな違和感が走る。
一瞬だけ、歩幅が乱れる。
神崎は何も言わず、少しだけ手を引いた。
晃も、それ以上触れないように手を戻す。
ただ、それだけの出来事だった。
なのに。
そのあとも、しばらくその感触だけが残っていた。
言葉にできないまま、二人はそのまま歩き続ける。
---
神崎の家の手前に到着すると、神崎は家の方を指さす。
「あそこが私の家なので」
立派な家。たぶん、この辺りで一番デカい。
「ありがとうございました」
「あぁ……じゃ。」
それだけだった。
神崎は軽く頭を下げて、門を開けて消えていく。
その背中が見えなくなるまで、晃はその場に立っていた。
理由はない。
ただ、すぐに歩き出す気になれなかった。
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家に帰ると、リビングの明かりがついていた。
「おかえりー」
ソファの上で、未来がスマホをいじりながら顔を上げる。
未来は、晃の顔を見るなり、少しだけ目を細めた。
「遅くない?」
「別に」
鞄を下ろしながら答える。
「ちょっと寄ってただけ」
「ふーん」
未来は興味なさそうに返しながらも、視線だけは離さない。
「で、どこ行ってたの?」
「神崎を送った」
何気なく出た言葉だった。
その瞬間、未来の手が止まる。
「……え?」
空気が一度だけ、止まった気がした。
「神崎……って理緒?」
「委員会活動してたから」
「なんで?わざわざ送ったの?」
短い問いだった。
だが、その一言だけがやけに重く感じた。
晃は少しだけ黙る。
「たまたま」
そう言いかけて、止まる。
たまたま。
その言葉は、口の中で形にならなかった。
代わりに出てきたのは、別の答えだった。
「……暗かったから」
未来は、じっと晃を見ている。
「それだけ?」
「それだけだろ」
即答した。
はずだった。
なのに。
胸の奥が、妙にざわついている。
さっきの帰り道。
指先が触れた感触。
理由もなく一緒に歩いた時間。
そして、自分が“送る”と決めたこと。
全部が、少しずつずれている気がする。
未来はふっと息を吐いた。
「へぇ」
それだけ言って、またスマホに視線を戻す。
晃はリビングを横切り、自分の部屋へ向かう。
階段を上がる途中で、ふと足が止まった。
さっきの会話が、頭の中で何度も繰り返される。
——なんでわざわざ送ったの?
その問いだけが、やけに残っている。
理由なんて、考えたことがなかった。
ただ、そうしただけ。
でも本当にそうか?
窓の外を見る。
夜の色が、もうはっきりと濃くなっていた。
その中で、ひとつだけ答えが浮かぶ。
——いや。
違う。
ただ“そうしたかった”だけだ。
その瞬間、胸の奥に落ちる感覚があった。
言葉にすると、形が変わってしまうもの。
ずっと曖昧だったそれに、名前がついてしまう感覚。
晃は小さく息を吐く。
「……ああ、そういうことか」
誰にも聞こえない声だった。
でも、それで十分だった。
自分の中でだけは、もう誤魔化せなかった。
さっきの帰り道も。
触れた指先も。
全部がつながってしまった。
——これ、たぶん。
恋だ。




