第6話 勘違いと永田
彼女はノートに企画をまとめているけれど、自分は何故かペンが動かない。
――どうしよっかな。
そんな風に悩んでいた時、
図書室の窓を誰かが大きく開けてしまった。
春先の風が一気に流れ込み、机の上に広げていた紙を揺らす。
「……っ」
資料の束が、ばらばらと宙に舞った。
「やば」
思わず声が漏れる。
追いかけようと立ち上がったそのとき。
「おっと」
軽い声とともに、紙が一枚ずつ、空中で受け止められていく。
振り向くと、永田がそこにいた。
「これ、読書週間のやつだよな」
そう言いながら、落ちた資料を手際よく拾い集める。
「ありがとうございます」
神崎は自然にそう言って、受け取った。
「助かりました」
軽く笑う。
その表情に、特別な意味はない。
ただ、風の中で少しだけ緩んだだけの笑顔。
それだけだった。
——なのに。
晃の視線は、わずかに止まる。
さっきまで、資料の内容を一緒に詰めていたときとは違う顔に感じる。
柔らかくて、自然で。
少しだけ、知らない顔。
「……」
胸の奥が、わずかにざわつく。
理由は分からない。
ただ、さっき神崎が言っていた言葉が頭をよぎる。
——永田先輩って、すごいですよね。かっこいいし、背高いし、バスケ部の部長ですよね?
その断片が、やけに引っかかる。
神崎は何事もなかったように資料を整え、席に戻る。
晃も何も言わず、その隣に座る。
「続き、やろうか」
「はい」
いつも通りのやり取り。
でも、少しだけ空気が違って感じた。
さっきの一瞬が、どこか頭から離れない。
紙に向かう神崎の長いまつ毛は、頬に影を落としていた。
集中しているだけの顔。
それなのに、なぜか落ち着かない。
——何なんだ、これ。
胸の奥に、名前のつかない感情が沈んでいく。
それを見ないふりをするように、ペンを動かした。
しばらくして、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
「今日はここまでにしますか?」
「……ああ」
少し遅れて返事をする。
晃は資料をまとめながら続ける。
「また、今度続きな。」
「はい」
神崎は短く答える。
それだけで、昼休みは終わった。
---
放課後。
晃が家に帰ると、リビングで妹が待っていた。
「おかえりー」
にやにやとした顔でこちらを見る。
「何だよ、その顔」
「別にー?……ねえ、お兄ちゃん」
ソファに座りながら、わざとらしく声を伸ばす。
「いつの間に理緒と仲良くなったの?」
「だから、仲良くなってないって。普通だよ。普通。」
「普通ねぇ」
未来は面白そうに笑う。
「今日、一緒に図書室行ったじゃん」
「委員会だし」
「ふーん」
間を置いて、未来は少しだけ身を乗り出す。
「ねえ」
「何だよ」
「でも、何でわざわざ昼休みに?」
にやっと笑って、言う。
「理緒って可愛いよね?」
一瞬、空気が止まる。
「……は?」
声が少しだけ詰まる。
「だってさー、わざわざ一緒にやってるし、意識してるんじゃないの?」
「してねぇよ」
即答する。
でも、なぜかその言葉が少しだけ遅く感じた。
未来は楽しそうに笑っている。
「へぇ」
「違うって」
そう言いながら、晃は立ち上がる。
でも、胸の奥に残った違和感は消えなかった。
——意識してる?
そんなわけがない。
そう思うのに。
さっき図書室で見た神崎の笑顔が、なぜか頭から離れない。
理由は分からない。
ただ、少しだけ呼吸が浅くなる。
椅子に背を預けて、天井を見上げる。
「……何だよ、それ」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
それでも、感情だけは確かにそこに残っていた。
---
次の日の昼休みも、上のフロアの2年生の教室へ向かう。
人の流れが重なって、視界が細かく揺れる。
その中を歩きながら、晃は神崎の教室の前で足を止めた。
——いない。
神崎の席に目を向けるが、そこは空だった。
図書室か。
そう思って、歩き出そうとしたそのとき。
教室の前を横切る影があった。
「……っ」
思わず視線が引っかかる。
神崎だった。
その隣にいるのは——永田。
二人は自然な距離で並んで歩いていた。
楽しそうに会話をしているようにも見えた。
そして、そのまま廊下の奥へと消えていく。
昼休みの、人気の少ない方向へ。
——どこ行くんだよ。
胸の奥が、妙にざわついた。
足が勝手に動く。
気付いたときには、二人の後ろを追っていた。
角を曲がった先で、距離が少しだけ縮まる。
神崎の声は聞こえない。
永田が何かを言い、神崎が微笑む。
——なんで二人で。
理由が分からないまま、焦りだけが積み重なる。
その瞬間。
晃は一歩踏み出した。
「おい」
声が少しだけ強く出る。
二人が振り返る。
神崎の目が、少しだけ驚いたように揺れた。
「どこ行くの?」
気付けば、そう言っていた。
「読書週間の企画やる約束してたじゃん」
言いながら、神崎の腕を掴む。
少し強くなった自覚があった。
——しまった。
そう思った瞬間。
空気が止まる。
神崎の隣にいた永田が、目を瞬かせる。
そしてその後ろから——
「藤森先輩?」
落ち着いた声がした。
視線を向けると、もう一人いた。
波瑠だった。
手には段ボール。
そして永田も、同じように古い本の束を抱えている。
——図書室の廃棄本。
その光景を見て、ようやく理解が追いつく。
三人とも、ただ図書委員の仕事だった。
晃の手の力が、わずかに緩む。
神崎が静かに口を開いた。
「藤森先輩……すみません」
少しだけ申し訳なさそうに目を伏せる。
「これ、ゴミ捨て場まで運んだら、図書室へ行こうと思ってました」
その言葉が、まっすぐ胸に落ちた。
——何やってんだ、俺。
周りの視線が気になる。
けれど、それよりも先に残ったのは別の感覚だった。
神崎の腕の感触。
掴んだままの、自分の手。
その手を見て、晃はようやく気付く。
——さっきの、あれ。
神崎が誰かと並んでいるだけで、嫌だった。
理由なんて分からないまま、体が先に動いていた。
静かに、手を離す。
「……悪い」
短く言う。
神崎は小さく首を振った。
「大丈夫です」
いつも通りの声。
その“いつも通り”が、逆に落ち着かない。
晃は視線を逸らした。
——なんなんだ、これ。
さっきの自分が、まだ消えない。
胸の奥に、説明のつかない熱が残っている。
それを振り払うように、言葉を絞り出す。
「……手伝う」
神崎が少しだけ目を上げる。
「一緒に運ぶ」
そう付け足すと、永田が軽く笑った。
「助かる」
波瑠も「ありがとうございます」と頭を下げる。
神崎は一瞬だけ間を置いてから、
「……お願いします」
そう言った。
廊下の光の中で、四人は並んで歩き出す。
さっきの騒ぎが嘘のように、静かな空気が戻っていた。
視界の端の神崎の横顔に意識が集まる。
——これ、たぶん。
もう戻れないやつだ。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。




