第5話 呼び出しと憧れ
翌日の昼休み。
教室はいつも通り、ざわざわとした空気に包まれていた。
理緒は席に座って、隣の未来と何気ない話をしていた。
「昨日さ、英語ほんとギリだったんだよね」
「ちゃんと予習してたって言ってたじゃん」
「してたけど、想定より難しかった」
未来はそう言って、机に突っ伏す。
「もうちょい簡単にしてくれてもよくない?」
「それは先生に言って」
軽く返すと、未来は「絶対言わない」と笑った。
そのとき。
「神崎」
廊下から声がした。
少しだけ低くて、聞き覚えのある声。
振り向くと、教室の入り口に藤森先輩が立っていた。
一瞬、空気がざわつく。
「げ!」
隣で未来が露骨に顔をしかめる。
「お兄ちゃん、何しにきたの?」
遠慮のない声。
「ちょっと呼びに来ただけ」
先輩はそれだけ言って、視線が、こちらに向く。
理緒は椅子から立ち上がる。
「何の用だろう……委員会かな?」
未来に一言だけ言って、廊下へ出る。
近付くと、先輩は特に前置きもなく言った。
「読書週間の企画、考えよう」
「あ……はい。」
そういえば、と思い出す。
昨日決まったばかりの役割。
まだ、実感はあまりない。
「今、時間ある?」
「大丈夫です。でも、期限まだ先じゃ…」
「そうだけど……」
先輩は一瞬だけ言いかけて、やめてから
「暇だったし」と言った。
そのとき、後ろから未来の声が飛んでくる。 未来はいつの間にか後ろにいた。
「え?お兄ちゃん、理緒と一緒にやるの?てか、いつの間に仲良くなったの??」
少し大きめの声。
周りの視線も、なんとなくこちらに集まる。
「別に、仲良くなったわけじゃねーよ」
先輩はそう言いながら、少しだけ視線を逸らした。
ほんの少しだけ、表情が緩む。
それを見て、未来は「ふーん?」と意味ありげに笑う。
理緒は、そのやり取りを少しだけ遠くに感じながら、言った。
「準備してきます」
先輩は「おう」と短く返す。
荷物を席に取りに行こうとすると、未来が耳打ちしてくる。
「いつの間にこうなってるの?」
「委員会で決まっただけだよ」
「へぇー……そうなんだ」
(ちょっとだけ間を置いて)
「なんか、それいいね」
納得しているのかしていないのか分からない声。
それ以上は何も言わずに、机の上の筆箱と資料をまとめる。
「ちょっと行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい」
未来は軽く手を振る。
その仕草を横目に、教室を出る。
廊下に出ると、先輩は壁にもたれて待っていた。
「お待たせしました」
先輩の視線が理緒へ向かう。不意に目が合うと、先輩は目を逸らした。
「行くか」
「はい」
並んで歩き出す。
特に会話はない。
昼休みの廊下は人が多くて、すれ違う声や足音が混ざっている。
その中で、隣を歩く存在だけが少しだけ意識に残る。
なのに、沈黙が重くないのが少しだけ不思議だった。
でも。
少しだけ、落ち着かない。
理由は分からない。
ただ、胸の奥がわずかにざわついている。
さっきのやり取りのせいかもしれない。
それとも。
——考えなくていい。
そう思って、意識を切り替える。
図書室の前に着く。
ドアを開けると、いつもの静かな空気が流れていた。
ページをめくる音と、小さな話し声。
外の喧騒が、少しだけ遠くなる。
「ここなら集中できるだろ」
先輩が言う。
「はい」
短く答える。
いつもと同じ場所。
でも今日は、少しだけ違う。
机に資料を広げながら、ふと気付く。
——ほんの少しだけ、胸が高鳴っていて、何だか気持ち悪い。
理由は、まだ分からない。
分からないままでいい気がして、
理緒はそのまま、紙に視線を落とした。
二人は、資料を眺めながら企画案を書き出していく。
向かいに座る先輩のペン先が止まる。
まだ書き終わらない文のまま。
「神崎」
不意に声がして、顔を上げる。
「……はい」
短く返す。
少しだけ間がある
「副委員長のやつ」
その言葉で、少しだけ呼吸が詰まる。
——そこ、今聞くんだ。
「なんで譲ったの?」
まっすぐな声だった。
逃げ道を探す。
すぐに、ひとつ思い浮かぶ。
「……あのとき、副委員長になった波瑠ちゃん、委員長になった永田先輩に憧れてるって言ってたので」
口に出しながら、自分でも少しだけ軽く感じる言い訳だと思う。
「だから、やりたいかなって……」
先輩は一度だけ目を細める。
「でもそれってさ」
静かな声。
「神崎の話じゃなくない?」
——一瞬、止まる。
「え」
「神崎、やりたそうな顔してたし」
その言葉に、視線が少しだけ揺れる。
「……え、顔?してました?」
思わず聞き返してしまう。
「してた」
即答だった。
短いのに、やけに確信がある。
「そ、そんなこと……」
言いかけて、言葉が途切れる。
——そんな顔、してた?
自分では分からない。
いや、分かりたくないのかもしれない。
「それに、本当に波瑠ちゃんの方が適任だと思ったんです」
少しだけ早口になる。
「ちゃんと、そう思ったので」
先輩はそれを否定しない。
ただ、
「ふぅん」
それだけ言って、視線を資料に戻した。
沈黙が落ちる。
紙の上の文字が、やけに遠く見える。
——これでいい。
そう思おうとするのに、胸の奥が落ち着かない。
何かが引っかかっている。
でも、それが何か分からない。
理緒は無理やり話題を変える。
「永田先輩って、すごいですよね」
先輩が顔を上げる。
「かっこいいし、背高いし、バスケ部の部長ですよね?」
言いながら、自分でも少しずれていると思う。
興味があるわけじゃない。
ただ、今ここにある空気から逃げたかった。
「やっぱり、三年生の中でもモテてるんですか?」
先輩は一瞬だけ目を瞬かせる。
「……さあな」
短い返事。
それ以上は深く聞いてこない。
助かった、と少しだけ思う。
でも同時に、なぜか余計に落ち着かない。
紙の上に視線を戻す。
ペンを握る。
書くべき言葉はあるのに、手が動かない。
——さっきから、何かがおかしい。
理由は分からない。
分からないまま、理緒は小さく息を吐いた。
そしてまた、ノートに続きを書き始める。




