第35話 熱中症とお迎え
理緒は、大学の授業の一環で企業講座に参加するため、隣県の講座会場を訪れていた。
朝から少しだけ緊張していた。
大学から電車とバスを乗り継いで一時間半。
窓の外の景色は、次第に住宅街から畑や林へ変わっていく。
普段の生活圏とは、まるで違う景色だった。
地域活性化事業を行っている企業の見学と講義。
一人なら、きっと来ることのない場所だ。
理緒はバスの窓から流れる田園風景をぼんやり眺めながら、そんなことを考えていた。
―――
施設見学と講義を終え、班ごとに駅へ向かう。
地方の無人駅に近い、小さな駅だった。
改札は簡素で、駅前にはコンビニすらない。
女子学生の一人が、のどかな駅前を見回しながら笑う。
「のどかだねー」
別の学生も苦笑しながら続けた。
「でも、帰りの電車逃したらヤバそう」
「たしかに」
そんな会話をしながらホームへ向かっていた時だった。
班の男子学生が、不意によろめく。
「……すみません、ちょっと……」
次の瞬間、その場にしゃがみ込んだ。
「えっ、大丈夫!?」
周囲が一気にざわつく。
男子学生の顔色は明らかに悪かった。
呼吸も浅い。
理緒は咄嗟に駆け寄った。
「日陰、ありますか?」
辺りを見回す。
小さな待合スペースを見つけると、周囲へ声を掛けた。
「誰か、肩貸してください」
「は、はい!」
男子学生二人が慌てて支える。
理緒は待合スペースへ移動させながら、男子学生の額へ手を当てた。
熱い。
「熱中症気味かも……」
そう呟きながら、理緒は周囲を見回す。
皆、どう動けばいいのか分からず立ち尽くしていた。
理緒は小さく息を吸った。
「救急車呼んでください。それから、先生に連絡取れる人いますか?」
「え、あ……」
「いなかったら講座会場に電話してください。まだ先生残ってるかもしれないので」
「わ、分かった!」
「あと、自販機でスポーツドリンク買ってきてもらえますか? 冷たいもの」
「行ってくる!」
「駅員さんにも状況伝えてください」
「はい!」
理緒の言葉で、ようやく皆が動き始めた。
理緒は自分のハンカチを水筒の水で濡らし、男子学生の首元や手首を冷やす。
ノートをうちわ代わりにして風を送った。
「大丈夫ですか? 気持ち悪くないですか?」
男子学生は苦しそうに息を吐きながら、小さく答える。
「……すみません……」
理緒は安心させるように言った。
「喋らなくて大丈夫です」
駅員もすぐに駆けつけ、待合スペースの周囲が慌ただしくなる。
やがて、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
その頃になってようやく、理緒は自分の鼓動が速くなっていることに気付く。
―――
救急車が到着し、男子学生は搬送されることになった。
しかし、教員はまだ来ない。
駅員に付き添いを求められ、理緒は救急車へ乗り込んだ。
気付けば、流れのままそうなっていた。
救急搬送された病院は、講座会場よりさらに奥だった。
窓の外には、見渡す限り田畑が広がっている。
理緒は病院の待合室で、小さく息を吐いた。
そこでようやく、自分が完全に知らない土地に一人で取り残されていることを実感する。
駅へ戻るバスは一応ある。
でも、本数は少ない。
理緒はスマホで必死に路線を調べた。
乗り換え検索の画面を何度も見直す。
次のバスまで十分。
でも、おそらくそれには乗れない。
その次は、さらに一時間後。
スマホの充電は30%。
待合室には、知らない人たちの話し声だけが響いていた。
――大丈夫。
ちゃんと帰れる。
時間が掛かるだけ。
そう自分に言い聞かせる。
その時。
スマホが震えた。
誠さんからだった。
《今日の会議、早めに来れる?》
理緒はすぐ返信する。
《すみません。帰るのに時間が掛かりそうなので、今日は参加できません》
数秒後、着信が入った。
誠が少し低い声で尋ねる。
『なにかあった?』
理緒は少し迷ってから答えた。
「班の子が体調崩して、救急車で病院まで付き添ってます」
『今どこ?』
「〇〇病院です」
少し間が空く。
それから誠が呆れたように言った。
『……お前、そこから帰り方分かる?』
「調べてます」
『そこ、電車で帰ったら二時間近くかかるぞ』
「帰れなくはないですから。ただ、まだ先生も親御さんも来てなくて、帰るわけにいかないんです」
誠は短く息を吐く。
『今から迎えにいく』
理緒は思わず立ち上がった。
「はい?」
しかし、そのまま電話は切れてしまった。
「……え?」
理緒はスマホを見る。
掛け直しても出ない。
「……何なんですか、もう……」
小さくため息を吐く。
ここまでかなり距離がある。
車でも相当な時間だ。
そもそも、どうやって来るつもりなんだろう。
―――
やがて大学の教員が到着し、付き添いは交代になった。
教員は安堵したように理緒へ頭を下げる。
「神崎さん助かったよ。ありがとう」
理緒も小さく頭を下げ返した。
「いえ……」
病院を出る。
夕方の空気は少し冷えていた。
見知らぬ土地。
慣れない景色。
車通りも少ない。
空は、もう薄暗くなり始めていた。
理緒はバス停のベンチへ座り、スマホを握りしめたまま、ぼんやり道路を見つめる。
それから三十分ほど経った頃。
バスが来た。
乗ろうとして立ち上がる。
けれど、足が止まった。
――誠さん、本当に来るかもしれない……。
理緒は運転手へ軽く頭を下げ、乗らないことをジェスチャーで伝える。
バスは静かにドアを閉め、走り去っていった。
その後ろ姿を見送っていると、一台の車が後ろからパッシングした。
振り返る。
運転席の人影が、軽く手を挙げる。
理緒が近づくと、助手席の窓が開いた。
誠さんだった。
「神崎さん」
理緒は目を見開く。
「……誠さん」
誠さんの顔を見た瞬間、肩の力が抜けるのが分かった。
誠さんは助手席のドアを開けながら言う。
「乗って」
「……本当に来たんですね」
「行くって言っただろ」
理緒は促されるまま助手席へ乗り込む。
車が静かに走り出した。
しばらく、理緒は何も言えなかった。
やがて、小さく口を開く。
「……わざわざ来たんですか?」
誠さんは思わず吹き出した。
「第一声それ?」
「だって、何時間掛かると思ってるんですか」
誠さん呆れたように笑う。
「だから来たんだろ」
「車だって……これ、レンタカーですか?」
「カーシェアってやつ」
誠は前を向いたまま続けた。
「来れるから来た。それだけ」
理緒は言葉を失う。
理解が追いつかなかった。
でも。
事実、誠は来て、ここにいる。
理緒は小さく呟く。
「……なんで、そこまで」
誠は少し考えるように黙ってから、軽く肩をすくめた。
「神崎さん、あまり外出慣れしてないみたいだったから。知らない土地で一人で困ってるだろうなと思って」
「でも、私だって帰るくらい……」
誠は小さく息を吐く。
「“助けなくていい理由”を探す必要はないと思うよ」
理緒は息を止めた。
誠は穏やかな声で続ける。
「助けてほしい時くらい、普通に頼ればいいじゃん」
「あ……今日の会議、どうなるんですか?」
誠は呆れたように笑った。
「こんな時まで他の心配すんな。また別日にやるから、絶対来いよ」
「はい……」
理緒は柔らかく笑いながら、静かに視線を落とした。
窓の外を、知らない景色が流れていく。
行きのバスから見たのどかな田園風景ではなく、暗い夜道に時々薄暗い街灯が見えるだけ。
なのに。
さっきまで感じていた不安は、もうどこかへ消えていた。




